392話 脆弱です
兄が身を硬くするのがわかる。
「お前が『噛みつき男』か!」
兄の叫びと同時に、扉の横にいたラーラがブンっと風切音を立てて、入ってきた手首を斬り落とす。
「ぎいいぃあああぁぁあ!」
手は叫びながら、床にごとりと転がった。
そのまま残された腕を振り回し、壊れた扉が乱暴に開かれる。
私達の目の前に、とうとう白い首の無い大男が全身を現した。
成人男性を上回る背丈と横幅。
皮膚は真っ白で、体は筋肉というよりもぶよぶよとした贅肉に覆われ膨らんでいる。
頭も首も無く、生き物として不完全な形は不吉の象徴という他になかった。
「るぅどおおぉるうぅふうう、ええべるはああああるうぅと」
狙いはそれだけだというように、落ちた右手と左手の裂け目から唸るように声を出す。
ラーラが斬り掛かるのを、子猫とでもじゃれ合うように手首のない腕を勢いよく振ってあしらっている。
先ほど腕を落としたのは不意打ちに他ならないとあざけるように、ラーラの攻撃は避けられている。
確実にこの異形は剣術を嗜んでいる。
でなければこうもラーラが翻弄されるはずがない。
「うっ」
巨体から振るわれた腕は、ラーラの胴体に叩きつけられ彼女の体を浮かせる。
人ひとり軽々と吹き飛ばす剛力。
そのまま彼女は、壁へ叩きつけつけられた。
石造りの壁は壁紙で飾られていても、頑健で硬い。
彼女は衝撃を逃がす事も出来ずに、肋骨が折れたのだろうか、それが内臓を傷付けたのか血を吐いて蹲る。
私はラーラに駆け寄った。
「よわいなあああぁぁ」
そう、それが言うように人の体は弱く脆いのだ。
人外のモノに為す術なく蹂躙されても、おかしくないほど脆弱であった。
警備を何人置いても、人でないものに敵う訳がないのだ。
だけれどそれでも立ち向かうのだ。
悪徳の神の力を借りてそこに立つ者が何をいわんやだ。
壁に体を預けるラーラを支えるが、彼女の意識は朦朧としていた。
「ラーラ、しっかりして」
声をかけるが返事はない。
呼吸も浅く、応急処置など学んでいない私には声をかけるしか術がない。
ああ、私は何を今までしてきたのだろう。
少しでも医術を学ぶべきだったのだ。
クロちゃんとビーちゃんも、こちらへ駆け寄り私達の壁になってくれた。
悪徳の神の化身は、楽しむかのように焦らすかのようにこちらへ体を向けたままであったが、近付いては来なかった。
ラーラの苦しみようを眺め堪能しているかのようだ。
そのまま立っているだけでも、猟犬が獲物を追い込むような興奮を味わっているのだろうか。
それとも夢の世界でこの2匹に落ち子達がやられたのを知っていて警戒して近付いてこないのだろうか。
私は咄嗟に、灰皿ごと炎の花を投げつけた。
「ぎゃあ」
炎の花は噛みつき男の右脚に当たり焦げを作ったが、すぐに払われて消えてしまった。
それは炎に驚いたものの、火傷を気にもしていない風だ。
そこほど効いた感じはしない。
もっと何か効果があると期待していたのに、私は自分の無力を再度嘆いた。
ラーラが動けないのを見て、兄が剣を構える。
剣を握る手が、震えているのがわかった。
「噛みつき男」の注目を自分へ向けて、私達を逃がすつもりなのだ。
「シャルロッテ、私は何度も悪夢を見た。夢の中では震えるばかりであったけど、今は違う。ここには私が守るべき君がいて、武器だってあるんだ」
絞るようにそう言った。
ラーラでも叶わなかったのに、子供のルドルフに何が出来るというのか。
「ルドルフ・エーベルハルトの名のもとに、邪神の使い手である『噛みつき男』を成敗する」
分かりやすく挑発すると悪徳の神の化身は、兄の方へと体を向けた。
「兄様、逃げて!」
やめて、私なんかの為に立ち向かわなくていい。
守ってなんかくれなくていい。
あなたはまだ年端もいかない子供ではないか。
私はあなたなんかより、よっぽど長く生きているのだ。
この中で、犠牲になるなら私であるべきだ。
私は十分に人生を味わった上、黒山羊様のお陰で過分な新しい生まで楽しんだのだ。
こんなところで若い命を、私より先に失ってはいけない。
「ひぃひひひひひいいいぃ」
兄の言葉に、手は愉快そうに耳に障る悲鳴に似た笑い声を上げた。
心の底から笑っている、そんな声だ。
それを合図に兄は身を低くして、突進した。
噛みつき男は残った左手でルドルフを捕らえようとするが、子供ならではの素早さでそれを避ける。
そして、そのまま後ろに回り込みアキレス腱と思われる場所に切りつけた。
噛みつき男は、動じない。
だが、兄はそのまま何度も斬り付けた。
「こおおぉれがあぁあああ、きしのおぉぉけんだとおおぉ」
執拗に後ろから足元を狙う兄を嘲笑うかのように、噛みつき男は煽る。
騎士ならばこんな小細工をするなと言いたいのだろうか。
自分は正々堂々としているとでもいうつもりか。