389話 霧です
「何やら霧が出て参りましたね」
ラーラが窓の外を見ながら零した言葉には、心配の色が滲んでいた。
それは、私と兄が寝支度をしているところだった。
つられて外を見ると、確かに白く霧が立ち込めている。
先程までは月が見えていた夜空だったはずなのに、すっかり霧に囲まれているのだ。
まるで、ホラー映画の導入のようだ。
そんな事をぼんやりと考えてみたが、鼓動が早くなるのがわかった。
これは不自然だ。
もし不可思議なモノが襲ってくるとしたら、こんな演出をするのではないか?
私は兄が剣に手を伸ばしたように、杖と訓練用のランタンを手にして炎の花を用意する。
役に立たないかもしれないけれど、何かしなければと思ったのだ。
誰も何もいっていないのに、それぞれがこれがおかしいことだと気付いていた。
侯爵家の庭の警備にあたっていた兵士達は、戸惑っていた。
太陽が沈んで夜が訪れたと思えば、それは霧を伴っていたからだ。
月が昇るにつれ、視界がどんどんと狭まっていった。
そして最後にはすっぽりと侯爵家の敷地を覆ってしまったのだ。
何も見えない。
さながら白い闇とでもいおうか、立ち込めた霧は視界を完全に遮っていた。
「なんて霧だ」
兵士のひとりが、吐き捨てるように言った。
王都にも霧は出る事は珍しくないが、こんな濃霧は初めての経験であった。
しかも1番霧の発生が少ない夏場だというのに。
ここが避暑地の高原のような場所なら話は別だが、ここまで霧が立ち込めるとは誰も想像しなかった。
誰もが首を傾げたが、自然現象なのだから手の打ちようもない。
一体何なのだと不審には思うだろうが、そこまでであった。
警備の兵士達は、昨夜の不気味な騒動を思い出しながら辺りを警戒している。
いつの間にか立ち込めた深い霧のせいで、隣の人間の顔を確認する事も難しい。
こんなことでは、いとも容易く不審者に侵入されてしまうだろう。
警備の計画は万全であったのに、この白い闇がそれを台無しにしてしまったのだ。
「火を焚け!」
魔導具の灯明の光は、白い闇に吸い込まれてまるで役に立たなかった。
それならばせめてと、霧を少しでも払う為に篝火がそこかしこで焚かれたが、その灯りは霧の白さを際立たせただけでなんの意味もなさなかった。
それらは、じりじりと白い霧の中、侯爵家の庭へと侵入していた。
侵入者達は、木の枝を踏んで音を出したかもしれない。
大きく草を揺らしたかもしれない。
だけれど、誰もそれを咎める者はいないのだ。
そちらに目を向けて凝らしても、霧以外何も見えないのだから。
あるいは、兵士のすぐ足元を這いずったかもしれない。
普段、目に見えるものに頼り切っているせいか、この視界の悪い空間で何かを見ようとより視力に集中するあまり、近くを過ぎる気配に気付く者はいなかった。
五感のひとつをこの霧によって封じられているのに、霧が目に映る事がかえってその深刻さを気付かせなかったのだ。
これが目をふさがれた状態ならば、兵士達も暢気にはしていまい。
すぐに抜刀し、気配を探ろうとしただろう。
霧が目に見えている。
それがかえって油断を誘っていた。
こそこそと音がする。
その中を這い回る、何かが音を立てていた。
警備についている兵士達は、お互い声を出し合う事で状況を把握するしかなかった。
あちこちで「おーい」と呼び合い、配置の確認がとられている。
これでは野営の訓練だ。
ある者は季節で行われる森での年間行事を思い出していた。
最低限の装備を持たされて、一定の期間を野営ですごす。
ここは王国で1番栄えている王都で、しかも貴族街だというのに、そんな事を思い出すことになろうとは。
苦笑しながら配置についているとそんな中、悲鳴が上がった。
「こっ! 子供が!!」
全体を確認出来る者は、ここにはひとりもいなかった。
それ程までに、この霧は濃いのだ。
分厚くも感じる白い霧の壁から唐突に子供の手が、ぬっと伸ばされる。
ある兵士の足には絡みつく赤子が、別の兵士の背中にはのしかかる子供がいた。
一瞬その手の幼さに、迷い子かと躊躇する者もいたが、すぐにそれを振り解く。
それはあまりに異様で、可笑しすぎたのだ。
普通の子供がこんな霧の中で、泣きもせず大人に飛びかかって来る事はないのだ。
それよりも、恐怖で反射的に振り払う者が大半であった。
皮肉な事に冷静に相手を見定めようとする者ほど、白い子供に取り憑かれるのだ。
そうして気付くのだ。
このモノ達が異形であることに。
間近で目にしたそれに、2つの眼はついていないのだった。
「こいつ!」
異常に気付いて、子供を突き飛ばす。
冷静に対処する者もいれば、悲鳴を上げる者もいる。
パニックのあまり篝火を倒してしまう者もいた。
エーベルハルト侯爵家の別館側の庭は、霧で分断された兵士の叫び声があちこちであがり、やむことはなかった。
白い子供達は、篝火の匂いや兵士の声、それを目当てにじりじりと歩を詰めていく。
彼らには霧など関係なかった。
彼らにとって匂いや音、それが世界を知る術、全てであったのだから。