387話 存在です
「気になることが?」
「いや……、うん、まあ少しね。信憑性のない話で混乱を招くのもなんだし確証を持てたら言うよ。落ち子はチェルノフ卿の後ろにいたんだね」
念を押すようにギルベルトは言う。
「ええ、後ろにいたのは確かです」
「とにかく今まではお嬢さんの近くには行けなかった落ち子が、玄関までとはいえやってきたんだ。落ち子自体も力を増しているのかもしれない。警戒するに越したことはないね。幸いというか昨夜の異常な事件のお陰で兵士達も気合がはいっただろうしね」
そう、幸いというか気の毒というか、昨夜居合わせた兵士達の前後不覚な様は、同僚達の危機感を十分に煽ってくれたのだ。
それだけいうと学者はまた、資料に目を落として自分の考えに没頭していった。
他にひとついい報せがあった。
昨夜は連続して起きていた殺人の被害者はいなかったと報告を受けたのだ。
どうやらうちに来る前に、一仕事してきた訳ではなかったようで、被害者が1人でも少ないのはいい事である。
「いっそ君達も夜は起きて昼間に眠る方がいいのかもしれないね」
しばらくしてからうーんと伸びをして、ギルベルトは提案した。
それは私も考えないでもないが、子供の体では頑張っていても寝てしまう気がする。
子供が年越しを起きて過ごそうとしても、眠気に負けて寝てしまうのは世の常だ。
「早めに眠って、夜中に起きるのはどうだろう?」
兄も意見したけれど、そううまい具合に眠れるものでもない。
いつまで続くかわからない事で体調を崩してはことである。
「無理して睡眠時間をずらしてもよくありませんし、なるようになるとしかいえませんわ」
こればかりは生理現象なのだし、子供の体で無理をするのは賛成出来なかった。
夜中に何かあれば嫌でも起きるだろう。
まだ起きていない事に気を張りすぎては倒れてしまう。
相手の出方がわからないのだから、なるようになれとしかいえないのだ。
「君は本当に度胸はあるよね。いつも感心するよ」
図太いとでも言いたいのだろうか?
学者の称賛は、なんだか褒められているようには感じられない。
まあ、この年頃の子供にしたら度胸が据わっているのは確かだろう。
慌ててもなにもいい事がないのは、経験で知っているのだもの。
「ガルシア伯爵は、本館で過ごしてるのだろう? 王宮に避難させないでいいのかい?」
震えるザームエルの肩をぽんぽんと叩きながら、ギルベルトが尋ねる。
華やかな世界で生きてきた助手にとって、この数日の出来事は衝撃的過ぎたのだろう。
気の毒に、思い出したかのように突然固まって震えるのを繰り返している。
ギルベルトはそんな彼を厭う事無く、かといって同情しすぎる事もなくこうして適度に慰めていた。
兄はその言葉にただ首を横に振るばかりで、返事は私に押し付けてきた。
恩人になってしまったガルシアは、兄にとって気に入らないけど追い出せない、微妙な存在になってしまったのだ。
こんな状態の館に、他国の使節団の1人を留めおくがいかに危険かはよくわかっている。
「昨日はああでしたが、別館よりは本館の方が安全でしょうし……」
こちらとしては追い出したいのだが、何より本人が滞在を延ばしたがっているのだ。
出来たら私達と同じ別館に泊まりたいとまで言い出したので、結局ギルベルトとその貴重な資料を預かっているので警備の都合上立ち入りを遠慮してくれと伝える事になった。
落ち子とチェルノフ卿の姿を見た後で、この嘘に意味があるのかは疑問だけれど、部外者にあまりこの件に関わらせたくないというのが正直なところだ。
戦力として協力を願い出る事も考えたけれど、こんな訳の分からない件に巻き込むほど親しくはないのだ。
彼の生い立ちには同情するし、心情もわからないでもない。
だけれどガルシアと話しをしていると、私を母親の代替えのように見ているような、そんな気がして落ち着かない気分になるのだ。
気さくにも友人とは、まだ呼べるものではなかった。
前に王子が、まだこの世界に馴染んでいない私の事を舞台を見ている観客のような、劇を演じている役者のような、他人を見ているようで見ていないと形容した事がある。
あの時の王子は、こんな気持ちだったのだろうか?
ガルシアにとっては、この世界はあの時の私の様に自分だけが確かなもので、他は存在するけど何か遠いモノに感じているのではないかと私には思えてならなかった。
え け い い
て へ り い
微かだけれど、確かに何かが鳴いていた。
聞き取れるか取れないかくらいの、ささやかな声。
不思議な声が鳴いていた。
館のどこからか、声がした。
それは地下からなのか、物陰からなのか、天井裏からなのもわからない。
ふと、気付いた時。
ほっと息をつく時。
やれやれと伸びをした時。
ふっと気が緩んだ時に、それは聞こえた気がした。
不思議な 不思議な 遠い鳴き声。
子供が、はぐれてしまって泣いているのかもしれないような声。
そんな鳴き声が、エーベルハルトの館で聞こえていた。