386話 欺瞞です
「あれはきっと、『噛みつき男』に違いないのじゃないかな。悪徳の神は大層巨漢だというし、まさにその通りの風貌じゃないか。悪徳の神はその信奉者の体に宿る事もあるというよ。今まで彼が容疑者として疑われなかった事の方が不思議かな。見るからに怪しいのにね」
忌々しそうな口調で、ガルシアはそう言った。
「人を見掛けで判断するなんて……」
私は反論しようとしたが、しりすぼみになってしまった。
判断も何も、本当に人ならざるものなのだもの。
自分を、醜男だと卑下したチェルノフ卿。
美しい娘達を手に掛けて、満足したのかしら。
何の為にあんな事をしたのか。
「知人が『噛みつき男』だったなんて災難だったね。人生において、不可思議な事は度々起こることがある。人は思ってもみない境遇に陥る事が、往々にしてあるものだよ」
「トマティートさんも?」
私が愛称を呼ぶたびに、ガルシアの目が細くなり幸せそうに笑う。
やはり、母親の面影を私の後ろに見ているのかしら。
「ああ、私に起きた不幸や幸福もまた不可思議のひとつかもしれない。昨夜の事も含めてね。私の国では経済や資産を優先する物質主義がまかり通っているように、他国からは思われているだろう? その実、呪術や呪いを信じて実践する人間が多いんだ」
ロンメルもそんな事を言っていた。
猿の手を切り取って売るくらい迷信深いのだもの。
「『Yの手』のように?」
「ああ、他にも金で願いを叶える為に神への生贄を買ったりね。変な話だよね、現世利益を求めながら、目に見えないものにすがるなんて。彼らは皆、後ろめたいのさ。人を蹴落として成り上がったのに、自分の背中に付き纏う妬みや恨みからは逃げたくて仕方ないんだ。だったら最初から罪を犯さなければいいのに」
生き馬の目を抜くような商業国家の人達が、おまじないのようなモノにすがるのは、確かに滑稽かもしれない。
善良でいたければ、罪など犯すものでは無いのだ。
でももし、犯してしまったら?
「生き方を間違えた方達は、どうなるのでしょう?」
「それはね、間違えた事を認めないか嘘をつくしかないんだよ。償うという人もいるだろうけど、誰がその償いを判定出来るというのだろう。償ったと思っても、そうやって自分を騙しただけかもしれない。結局、そうして人は悪徳の神の手に堕ちていくんだ」
何だか悲しい考え方ね。
商業国家の人は皆こういう考えなのかしら?
そしてガルシアもまた、そういうものを背負っているような気がした。
「そういえば、君には感謝しているんだ。この間は、母の話しを聞いてくれてありがとう。あの後、母に会った時、ちゃんと自分の気持ちを言えたんだ。答えてはくれなかったけど、長年のしこりが取れた気がしたよ」
満足気にガルシアは言った。
「母に?」
今、私を見ているように誰かに母親を投影したのかしら?
それとも思い出したり、夢に見たと言うこと?
きっと夢に見たのね。
故人が恋しくて夢に現れるのは、ない事じゃないもの。
会いたすぎて母に会ったと口に出して私に言うことで、現実に起きた事のように装っているのだろう。
自分自身をも、そうして騙しているのだ。
ガルシアの返事を待ったが、満足気に微笑むばかりだった。
「なんの手掛かりもない!」
ギルベルトがそういって昨晩の報告書と資料を照らし合わせながら机に突っ伏して叫んだ。
そうしてしきりに、昨夜私達に付いて行かなかった事を悔やんでいる。
彼にしては首を落とされても動く不可思議な生き物をほおっておくことは出来ないのだろう。
あれらを経験した助手に恨みがましい眼差しを送っている。
ザームエルはザームエルで、彼から羨望されることを昔は望んだ事があるけれど、こんな事では決してなかったはずなのにとシーツにくるまって震えながら呟いていた。
まだ昨日の事が尾を引いているのだ。
昼間はまだしも陽が落ちてから助手の震えは酷くなる一方である。
あんなに恐ろしい思いをしたのに、なにひとつ証拠がない事がより一層彼の恐怖をあおっているようだった。
「そういえば落ち子は玄関から中へは入らなかったようだね」
各人の聞き取り書を眺めながら私に話をふった。
「言われてみれば、館に踏み入ったのはチェルノフ卿だけでしたわ」
「落ち子は彼を取り囲んでいた?」
どうだったかしら?
扉が開いてチェルノフ卿や他の人達が飛び込んできたのは確かだ。
「入って来た人達の後ろに無数の落ち子がいたのは確かです」
「ここのところの猟奇殺人事件が功を奏したとでもいうのかな。『噛みつき男』は手数を増やす事に成功したようだ」
「ええ、でも入館出来なかったという事は、やはり存在が薄いのではないかしら?」
「そう考えていいと思う。そうでなければロビーはすっかり落ち子に侵食されていたはずだし……」
そういうとギルベルトは考え込む。
なんだか歯切れが悪いのだ。
私が気付かない何かがあるというのかしら?