384話 パン食です
チェルノフ卿は風変わりではあるが、代々外交官としてこの国に出入りしている一族のはずだ。
そんな彼が今までの実績を捨てて何故、今「噛みつき男」として王都を荒らしたのか。
それとも表沙汰になってないだけで、今までもこういう事が起きていたとか?
いや、それならば従来通り水面下で犯罪を続けていたはずだ。
そういえば、気になる事を言っていた。
満願とは「噛みつき男」として、願いが成就するということなのだろうか。
それと帰郷はどう繋がるというのだろう。
消えたチェルノフ卿と白い子供達。
その晩の異変はそれきりで、何一つはっきりとないまま夜は明けた。
クルツ伯爵邸にも戻っていないという。
王国見聞隊はチェルノフ卿を外交的な問題から表向きは要人保護の名目で、その実は「噛みつき男」の最重要容疑者として身柄の確保を各機関に要請した。
クルツ伯爵邸には監視と護衛がつく事になり、図らずもコリンナの安全は確保されたことになる。
いつもなら使用人達は活気溢れて気持ちよく働いているけれど、今日はそんな訳にはいかなかった。
皆、疲れて寝不足の顔をしている。
あんな事があったのだから、仕方がないのだけど。
兄の安眠を守ったと喜んだばかりなのに、こんな事になるとは。
涼しい顔をしているのは、ルフィノ・ガルシアぐらいだろうか。
うちの滞在許可をもらって、大層ご満悦のようである。
お客様をもてなすのは家人の義務だけれど、いくらにこにこと笑いかけられても私は彼の母親になる気はない。
良い友人関係になれるかと問われたら、彼の少々自分勝手な思い込みや行動を思うとそれも怪しいものだ。
こういう少年のままこじれた男性は包容力のある女性をさっさと伴侶にするなり、欠けた部分を補ってくれる相手が何人か必要になるだろう。
道徳的ではないけれど、きっとひとりの女性では支えきれないし、彼の穴を埋めるのは難しいのではないだろうか。
ハイデマリーへの態度を見る限りは、彼はきっと後者を実践してきたのだろう。
見た目がいいとはいえ、相手の女性達には気の毒だというしかない。
格好良くて、口が上手くて少々影がある男性。
質が悪い事に、こういう男性の方が若い娘さんにはモテるのよね。
あまり女性を泣かさないといいのだけれどもと、老婆心ながら思ってしまう。
いい事探しではないけれど、ひとつ良い事もあった。
ガルシアが滞在するにあたってグローゼンハング共和国の料理人を屋敷に連れてきた事だろうか。
「噛みつき男」に悩まされながらも、その料理人のお陰で食事は異国情緒を取り入れて楽しめそうである。
現に今日の昼ごはんは、ボカティージョという長いパンに片側は残したまま切れ込みを入れてオリーブオイルと大蒜とトマトを刷り込んだものに、ハムやオムレツを挟んだ物がテーブルを賑わしたのだ。
両手からはみ出す程のパンを握ってかぶりつくなんて無作法は、普段は許されざる事だ。
それが、異国の文化だと勧められればそういうものだと許容される。
私はこれ幸いにとボカティージョにかぶりついて、存分にパンの食べ応えを楽しませてもらった。
粗野に見えても、手掴みの食事はおいしいものであった。
兄は普段食べ慣れない長いままで供されたパンを目の前に悩んだ末、フォークとナイフで小分けにして食べていた。
行儀がいい事だ。
私も前世の経験がなければ、こんな風にパンを頬張る事もしなかったのかしら?
そう思うと少し得をした気分になった。
文化交流という事でこの料理が出された訳だが、昨夜の事件から少しでも気持ちを遠ざけようという料理人の配慮かもしれなかった。
手で食べる作法は食卓の話題を賑わせてくれたし、その味も同様である。
普段しない事をするのは、気分転換にはもってこいだ。
それにおいしいものを食べている間は、暗い話を忘れることが出来るものだもの。
怯え切っていたザームエルも、今だけは明るい顔をして話をしている。
ボカティージョは、手軽に食べる事が出来るので、特に兵士達に好評であったようだ。
わざわざ厨房にまで感想が届いたというのだから、余程気に入ったのだろう。
だけれど、1番喜んだのはあろう事かギルベルトであった。
「本を読みながら食事をとれるなんて、素晴らしいじゃないか!」
そう絶賛していた。
普段から研究一辺倒で資料を漁ってひっくり返すギルベルトにとっては、食卓につくのも億劫なのだろう。
王都の食事で、片手で食べる事が出来るのはすぐに思いつくのはミートパイくらいだろうか?
サンドイッチも無いことはないけれど、具材によっては零れやすいしソースや油が手についてしまう。
パイも同様であるので、貴重な本を汚すのでおすすめできない感じだ。
シンプルなボカティージョはその点も食べやすい。
すごく単純なものなのに、王国にはそういう文化はなかったのは、形式ばった礼儀作法が重んじられているからだろうか?
それとも貴族が知らないだけで、庶民には浸透しているのかもしれない。
そう思うと貴族も不便が多いものである。