381話 首無し男です
頭の無い巨漢。
それは資料で見た、あの悪徳の神そのものにも見えた。
それを前にして、泣き喚くもの、すすり泣くもの、神に祈るもの。
その恐怖に打ち勝てず、それぞれが自分の感情を忠実に行動に表していた。
ザームエルはすっかり縮み上がって、目を閉じてチェストの陰に隠れている。
体が丸見えだというのに、彼はそれでも隠れているつもりなのだ。
それは父親の威光、後援者の力、ギルベルトの名誉の傍らに寄り添う彼の生き方にも通じるものがあった。
豪胆なのはラーラとガルシアだけで、剣を構えながら私と兄の前に立って壁となってくれている。
兄も怯まずにチェルノフ卿の体を見据えて、私を守ろうとしていた。
私はと言えば、ただ呆然と見ているしかなかった。
頭が溶けるのも、頭が無いのに動くのも何もかもおかしいじゃない。
誰か説明して!と心の中でわけがわからずに癇癪をおこしていた。
悲嘆に暮れる人々を気にする事もなく、頭の無いチェルノフ卿はゴソゴソと辺りを確認するように両手を広げて空に這わした。
一見すると暗闇の中、手探りで前に進もうとするような動作だ。
目隠しをして、鬼さんこちらと囃し立てる遊びを思い出す。
この鬼に捕まってしまったら、一体どうなってしまうのだろう。
何度かその異形は同じ動作を繰り返すと、ぴたりと動きを止めた。
そうして開け放たれた玄関扉へ体を向けると、いきなりすごい勢いで走り出す。
その場の全員が身構えた。
もし、それが落ちた首を小脇に抱えていたなら、きっと首無し騎士の様にも見えたかもしれない。
どしどしどし
重厚な絨毯が敷いてあっても、聞き取れるくらい重く大きな足音が響く。
それは足を床につける時に、力加減が出来ていないのだろうと思わせた。
そうしてそれは、一直線に外へと走り去ってしまった。
残された私達は呆然とした。
一体、何だったのか。
皆が動けず見ている中その異形は誰かを襲う事無く、そのまま外へ出ていってしまったのだ。
そうして、ここにいるのは生きている人間だけで、あれほどいたはずの白い子供達も消えてしまっていたのだ。
「チェルノフ卿……」
拍子抜けした私の口から出たのは、その言葉だけだった。
「シャルロッテ様、大丈夫ですか?」
ラーラが屈んで私の顔を覗き込む。
大丈夫と聞かれたら大丈夫なのだけど、目の前で起こった事が何一つ理解出来ない。
頭が無くなったから逃げ出したの?
何をしにここまで来たというの?
ガルシアはチェルノフ卿を斬った剣を握ったまま、じっと死体のあった場所を見つめている。
「ガルシア殿、お手柄でした。貴殿がいち早く動いてくれたお陰で事なきを得ました」
ラーラの声に反応して、こちらを向いた。
「君が無事で良かった」
「ありがとう……、トマティートさん」
もうきっと、私がガルシアを愛称で呼んでも兄も怒らないだろう。
それどころではないのだもの。
兄も今、ここで何が起きたのかわかっていないのだ。
ガルシアは満足気に、にっこりと微笑んだ。
本館の騒動を聞きつけて、しばらくして別館の警備の兵達が集まってきた。
現場の雰囲気の異様さもあって、厳しい顔をしている。
首を斬られたはずの男の体が逃げたと連呼する兵士や、子供のように泣きじゃくる者もいる。
盲の白い子供達に囲まれたと主張する者もいたし、その全ては本当にあったことなのだ。
だけれどひとつとして、その証拠となるものは残されていなかった。
血飛沫のひとつも、現場には残されていない。
異臭を放っていたはずの黒い液体も、いつの間にか消えてしまっていた。
心には疵を負ったかもしれないが、身体に外傷を負った者はひとりもいないのだ。
わかりやすくいえば、被害者はひとりも出なかった。
加害者も、被害者も、証拠も何もない。
どこにも何も存在しないなら、今あったことをどう証明すればいいというのだろう。
居合わせた者達が主張する様は、何もないのにまるでそこに何かがあったかのように演技をしている舞台の役者に似ていた。
誰も起きた事を証明する手立てがないのだ。
当事者以外でひとつだけあるとすれば、門を警備していた兵士達が見た首の無い大男がすごい速さで走り抜けていったという目撃証言だけである。
ここまで来てチェルノフ卿は、何をしようとしたのか。
私に何か言いたげであったのは、間違いない。
首を落とされてでも、何かを言おうとしたのだもの。
もしかしたらそれは私の勘違いで、兄を直接手に掛けようとした?
でも、それなら私に話しかけようとするかしら?
そもそも兄の事を、見てもいなかったではないか。
まったく意味がわからない。
何もかもがチグハグで筋の通らない奇異な事柄であった。