380話 汚泥です
あの煉瓦の壁の向こう側で見たのと同じように、その両の手の平に口をつけた赤子や幼児に小児とそれぞれ成長の違う子供達。
その白い子供の群れの先頭には、チェルノフ卿がいる形になっている。
彼の後ろには白い子供達が控えていた。
ああ、なんてこと。
そりゃあ怪しいとは疑っていたけれど、本当にチェルノフ卿が「噛みつき男」だったというの?
兄を狙って、ここまできたの?
扉が開いた勢いで転がり込んだチェルノフ卿は、そのまま無様にも床の上で四つん這いになっていた。
大きな体とふくよかな腹が邪魔をしてか、すぐさま立ち上がることは出来なそうである。
そしてそのまま私の方を見ると、何かを請うかのようにその大きな右手をこちらへと伸ばしてくる。
足を捻ったコリンナをおぶっていた優しい大男。
ぶつかった時、その手で私が転ばないよう抱きとめてもくれた。
訛りのあるけれど軽快な話術で楽しませてくれた異国の人。
おいしいお菓子に舌鼓を打ち、楽しげに笑っていたチェルノフ卿。
彼が「噛みつき男」で無い証拠を自分の中で探すように、短いながらも一緒に過ごした記憶が再生する。
「儚い人の生に宿る正気と狂気が、私には例えようもなく尊いのです」
「実はもうすぐ満願を迎えまして」
同時に、不思議な言い回しも思い起こされる。
白い子供達と屋敷を襲う事が、チェルノフ卿のしたい事だったの?
ここで私達を襲って、満足して故郷へ帰るというのかしら?
その手は私に向けられて、すがりつこうとするかのようだ。
そして、何か言おうとしている。
くっきりとした二重の目が、大きく見開かれて私の姿を映していた。
「シャル……」
その口が私の名前を呼ぼうとした。
ざくり
私の目の前で、容赦なくガルシアの剣が振り下ろされる。
なんとも嫌な音を立てて、チェルノフ卿の首は胴体から零れた。
ごぼごぼと、切り口から溢れる黒い黒い粘液。
夜の暗さが、その血潮に映り黒く染めているのか。
いや、違う。
それは確かに黒いのだ。
チェルノフ卿の体を流れていたのは赤い血ではなく、黒い汚泥であった。
「化け物が、君の名前を口にするなど……。穢らわしい」
ガルシアが、吐いて捨てるように言う。
この人は、こんな非情な顔をする人だったの?
確かに……、確かにチェルノフ卿は人ではない。
だけど、こんな風に終わっていい人なの?
いや、「噛みつき男」が何をしたか思い返せば、これは余程マシな終焉であろう。
ごろりっと、私の目の前には彼の生首が転がった。
それから目を離せずにいると、その頭がゆらゆらと揺れ出した。
そうしていつか見た悪夢のように、その床に転がる生首は、有り得ない動きで私の正面へくるりと向きを変える。
瞬きをしない瞳孔が開いた目が死んでいる事を証明しているが、その生首は動いていた。
そうして、まだ何かを言おうと大きく口を開く。
ぐちゃり
その生首に、ガルシアの足が勢い良く降ってきた。
踏み潰されて、それは頭の形をもう保ってはいない。
とぷんっと音をたてて、その形状を変える。
確かにそこにあった頭は形を崩して黒い液体になってしまった。
誰もが言葉を失った。
その液体からは鼻をつく臭いが立ち上った。
しだいに辺りには、生臭いようなドブ臭いような何ともいえない悪臭が漂いだす。
血の匂いではなく、それは生き物からしていい臭いではなかった。
どぶ川をさらったような、降り積もる死が発酵したような泥の匂い。
血溜まりが出来るはずなのに、そこにあるのは玉虫色に表面が光る黒い粘液の水溜まりが広がっているだけだ。
生首どころか骨のひとつも見当たらなかった。
「化け物め」
ガルシアは何度も何度も、執拗にその汚泥を踏みつける。
化け物。
チェルノフ卿は化け物だった。
そうよね、斬られた首が黒い水溜まりになるなんて人間ではない。
自分を納得させるように、その事実を心の中で復唱する。
では、チェルノフ卿はなんだったの?
チェルノフ卿が化け物だったら、コリンナは大丈夫なのかしら?
「噛みつき男」が、私を苦しめるのを目的として兄を狙ったなら、コリンナもそれに該当するのではないか。
呆然とそんな事が頭をよぎる。
「わああああ!」
護衛の兵士が声を上げた。
皆がそちらへ目を向けた。
彼の視線の先には、床に横たわる頭の無いチェルノフ卿の死体があるだけだ。
だけのはずだった。
兵士の叫びの原因は、明白であった。
死体であるはずのその体が、ドクンドクンと脈打つようにうねっている。
指先は骨が無いかのように、うねうねとあらぬ方向へ曲がり、その四肢はバタバタと動いているのだ。
頭を無くしたそれは、既に人の動きも忘れたかの様に暴れ出した。
何もできない。
無力な人間には、何も出来る事がない。
皆何も言えずに、固唾を飲んでそれを見守るしかなかった。
暫くするとその顫動がぱたりと止む。
そうしてそれは、本来の動き方を思い出したかのように揺らりと起き上がった。
有り得ない。
そんな事は有り得ない。
それを見た者は、そう思った事だろう。