375話 助手の葛藤です
ザームエルは、排泄物と腐敗臭が混ざった裏町の匂いに顔を顰めた。
案内人の背をギルベルトと共に追いながら、幾つもの角を曲がっていく。
彼は内心焦っていた。
まだ、心の準備は出来ていない。
いつもはギルベルトだけが死体を検分していたし、そもそも王国見聞隊の仕事には干渉してはいなかった。
自分はあくまでも学者としてのギルベルト・アインホルンの助手であり、王国見聞隊の顧問の秘書ではなかったからだ。
とはいえ、ギルベルトはこちらの仕事の補佐も自分に望んでいた。
いつでもこちらへ来ていいし、来なくても責めはしないという緩い希望であったのだが。
名誉ではあるが、その組織は厳しい守秘義務に守られ王国の闇にも精通しているという。
古くは王国奇譚見聞隊という名で、奇異で不可解な事象を専門に取り扱い神官の様な真似までしていたらしい。
不可思議が神話の昔とされ、人々の目から遠ざかるにつれて王国や異国の普通の事件を収集したり、その上で培ったノウハウから土地の測量、地図を編纂する団体へと変わったのだ。
健全な組織になったかもしれないが、それでも一度関われば一生涯抜け出る事が難しい。
ほどほどの労力で愉快にやっていきたい人間には、少々それは荷が重いと言えるだろう。
そうして足踏みしていたが、エーベルハルト令嬢が持ち込んだ今回の件で、なし崩しにこちら側へ来てしまった。
書物を読み解くのは得意だったし、神話の生物について知るのも考察するのも悪くはなかった。
だが、しかし人間の死体と向き合うのは、全く別の話である。
現場に足を運ぶというのは、そこに出来たての死体がある事に他ならないのだ。
しかも話によれば、首も手足も千切られているなんて、今まで見た事のある棺に横たわる死体とは一線を画すといっていいだろう。
猟奇的な殺人犯に弄ばれた死体を目にするなんて、普通に生きていたら無縁のことであるはずだ。
そんなものに対峙しなければならないかと思うだけで、手足が震えてしまっていた。
正直に言えばザームエル・バウマーは逃げ出したかった。
出来れば馬車の中で隠れていたかった。
かといって、自分だけ馬車に残ってギルベルトだけを送り出すには場所が悪すぎたのだ。
もしこの暗い裏町の路地で案内人とはぐれたら、この呑気な学者はあっという間に迷子になって、貧民達に骨までしゃぶられてしまうだろう。
きっと、新聞には惨殺死体の記事とは別に「冬越の学者裏町で失踪す」と見出しが書かれて人々の話題になるのだ。
その様がありありと想像出来る。
そんな事を許せるはずはなかった。
この賢くも頼りない男を支えられるのは、社交界を渡り歩き酸いも甘いも経験した自分だけなのだと、何度も自分自身を騙すように言い聞かせた。
今もギルベルトの背を押しながら、案内人とはぐれまいと必死になっている。
このままついていって自分は死体と向き合う事が出来るだろうか?
つい2年も前なら社交シーズンのこの時期には毎夜夜会に足を運び、その煌びやかで怠惰な招宴に身を投じていたのだ。
甘い女性の体から立ち上る香水に、紫煙を燻らす男達。
カードに賽子、酒に煙草。
今の立場に満足しているというのに、あの場所に帰りたくなってきた。
ああ、今からでも遅くはない。
そんな葛藤が何度も沸き起こる。
逃げだしてしまいたくなるのを押さえつけながら、ザームエルはギルベルトの背中を見つめ続けた。
ザームエル・バウマーにとって、その夜はとても長いものとなった。
昼餉の時間の前に、学者と助手はようやく起きてきたようだ。
ギルベルトはいつも通りなのだが、ザームエルは真っ青な顔をしている。
「大丈夫ですか? ザム様」
私が声をかけると、彼は力なく笑った。
「ええ、大丈夫です。私はギルの助手としてしっかり務めましたから……」
今にもぱたりと倒れてしまいそうな風情である。
なんだか、どう見ても大丈夫ではなさそうなのだけど。
「ああ、現場でしこたま吐いてたからねえ。幸いここの食事は消化に良いものを心がけてくれてるから、昼食をしっかりとって体力を回復しないとだね」
まあ!ギルベルトの発言は無神経でなくて?
ザームエルはすっかり弱ってしまっているのに。
先ほど聞いたのだけれど、真夜中の招集は号外に載っていた新しい事件現場へのものだったという。
ただでさえ綺麗好きそうなザムだもの、裏町自体にも馴染めなかったろうし、新聞記事の通りならばもげた首やら、手足を間近で見たという事だ。
なんて大変な仕事でしょう。
帰宅してから、家令は彼らに付いた臭いを落とす為に入浴を迫ったらしい。
頭からつま先まで綺麗になって、やっとベッドで休んだのだという。
今頃、着て行った服が陽射しの下ではためいている事だろう。
随分過酷な現場だったようだ。
私は彼に同情を寄せずにはいられなかった。