374話 逡巡です
元々、警戒していたせいもあってその事件を王国見聞隊が聞きつけたのは、新聞社が動き出したのと同じ時刻であった。
死体の異常さもだが何より歯型が残されているのを見つけた事で、すぐさま顧問であるギルベルトに遣いが出されたのだ。
エーベルハルト侯爵家の扉が、激しく叩かれる。
夜通しパーティもあるので、夜中の来訪者はたまにあるといっても、もうすぐ陽も昇るという朝方に近い時間の客は稀である。
ましてやそれが、王国見聞隊の遣いだとは。
その珍客に使用人は飛び上がった。
夜中の来訪者の用件聞いた家令は、すぐさま着替えて別館へ足を運ぶ。
起きたてである事と、火急の件から普段なら立てない足音を伴っていた。
きっと先代の家令がここにいたら、たっぷりと小言をいわれたことであろう。
その騒動で起きたのか、本館から男がひとり出てきた。
足は家令と同じく別館の方へと向かったが、扉をくぐることなく庭へと回っていく。
そうして喧騒を嫌うかのように、木陰へと身を隠すと続いて低く深く響く柔らかな歌が庭に流れだした。
全てを眠りに誘うような、それは不思議な歌だった。
森のさざめきのような歌声の男に気付く者はなく、家令は別館の客間の2人を叩き起こす。
用件を伝えて、すぐさま出掛ける用意を手伝った。
ザームエルは寝ぼけ眼のギルベルトを家令と共に着替えさせ、用意してある馬車へと詰め込むとようやく一息つけると胸を撫でおろす。
ここまで急な呼び出しも、彼にとって王立見聞隊の顧問の助手として現場に出るのも、はじめての事であったので、落ち着く時間が必要だった。
馬車は下町まで走り続ける。
ここに来るまで一度も馬車を止められる事はなかった事に、助手は驚いている。
どの門も王国見聞隊の馬車を見た途端、開扉してくれるのだ。
普段は、上級貴族にだってそんなことはしまい。
王国の人間なのだからその特殊な権限はわかっていたつもりであったが、それを享受する側になってはじめてわかることもあるのだ。
図らずもこの真夜中の外出は、自分の所属する学者の持つ権力を再確認させてくれたこととなった。
馬車に揺られ裏町の手前で、学者と助手は降ろされる。
案内人がいうには、この先は道幅が狭くて、馬車は通れないという。
まさか、貴族の自分がこんな場所へと足を踏み入れるとは。
人生は何が起こるかわからない。
爵位の継承とは無縁の次男坊だが、社交界を諦めることは出来ずなんとか学者の肩書きをつけて貴族達と渡りをつけてきた。
悪評高い裏町に来るなどあの頃の自分はおもってもみなかっただろう。
ザームエルは、信じられない思いでギルベルトを見た。
当の学者は、嫌がりもせずぼんやりとしているもののなんの疑問もなく案内人について歩いている。
どちらかといえば、寝ぼけながらもこの見慣れない風景を楽しんでいるようにまで見えた。
この暢気さを、昔は憎んでいたこともある。
周りから疎まれているのに、独創的な研究を発表して飄々としていたギルベルト・アインホルン。
学会も彼の実力を知りながら、あえて蔑ろにしてきた。
貴族らしくない彼を皆で笑い者にしたこともある。
そのどれもが、今考えると幼稚な嫉妬であった事がわかる。
冬越会でエーベルハルト侯爵令嬢にやりこめられたことで、立場がなくなった事を恨んだ事もあった。
行き場がない自分を、今や有名人になったギルベルトが受け入れてくれるかは賭けに近かった。
冬越会の侯爵令嬢の言葉を盾に後援者から紹介状を出してもらい、そうして押しかける形で助手に収まったものの、最初のうちは辛い事ばかりであった。
何しろギルベルトの研究室は掃除片付けも行き届いていないし、何かに没頭してしまうと返事もしなくなってしまう。
環境を整えながら、研究内容を少しずつ勉強していくうちに自分の中に失くしたはずの向学心が芽生えたのを発見した。
子供の頃は知る事が楽しくて、仕方がなかった。
とりわけ異国の言語や文化が好きで読書に励んだ事もある。
それがいつの間にか勉学は後援者を探す手段となり、自分を飾り付ける為に過去の学者達の論文をツギハギしながら張りぼての研究者となっていたのだ。
そんな事を気にせずに迎えてくれたギルベルト。
2人で夜通し議論したり、読書にふける生活は等身大の自分に戻ったような気持ちにさせてくれた。
幸いな事に社交的な事が得意な事もあって、ギルベルトの欠点を補うのに自分が最適であると自負できるようにもなった。
諦めていた王宮への入場も叶い、侯爵令嬢とも目通り出来た。
悪徳の神に目を付けられるという不運には見舞われているが、まだ怖い思いをしたわけでもない。
順風満帆だと思っていたが、こんなところに落とし穴があろうとは考えてもみなかった。
こんな夜中に、こんな場所を歩く事になるなんて。
街灯は、ほとんど無くどこに何が潜んでいるかもわかったものではない。