373話 幸か不幸かです
それは夜が開ける前、裏町の住人に発見された。
酒場の片付けを終えて酔いつぶれた客を追い出してから、寝床へ向う酒場の下人が見つけたのだ。
まだ夜も明ける手前、灯りといえば手にした灯明くらいの心細い光。
最初は血塗れのその場所に、何があるかも理解出来なかった。
暗闇に漂う酷い匂いに、何事かと足を向けたのだという。
もし鼻が良ければ臓物の臭いに紛れて、上等なワインの香りに気付いたかもしれない。
だが、ここはもとより汚臭にまみれた裏町で誰もそれに気付く事はなかった。
歩を進めると、雨でもないのに地面がぬかるんでいるように感じる。
現場の地面が何故濡れていて、何で濡れているかに気付いた時はもう後退りも出来なかった。
壁の前には木箱が置かれ、もぎ取られたらしき生首が鎮座していて虚空を見つめていた。
胴体は、ずた袋のように地面に転がる長方形の物体になり下がり、中身の液体はすっかり地面に零れている。
一本、骨が飛び出していてそこに脚があったことを示していた。
手や足はすべてちぎられて、その辺に転がされている。
そうして白い壁には、あろう事かそのうちの一部を使って壁に文字が書かれていた。
それを全て理解するには酷な話であった。
ひと目見てわかるのはバラバラにされた死体と壁の文字だけであったが、それでも人ひとりを恐怖に陥らせるには十分である。
発見者であった下人の口から、大きな叫び声が発せられた。
それは息が切れるまで続いたし、息が切れてからも呼吸をするたびに引きつる様な悲鳴が口から流れ出た。
運悪く通りがかっただけの憐れな下人は、もうそこから自力で移動する術ももたなかった。
夜明け前とはいえ、それだけ大声をあげれば人を集めるのは充分だ。
それにつられて集まってきた観衆のひとりが衛兵を呼びに走る。
胆力があると褒め称えられてもよい行いであった。
そうでない者は惨状から目を反らしたり、腰を抜かしたりと自分の恐怖で手一杯だったからだ。
そんな中、ひとりの青年がそれをスケッチしている。
皆が持ち寄った灯りで照らされるその現場を、文字と絵で描き留めていた。
青年は裏町専門の記者と自称していたが、実のところは小遣い稼ぎに裏町の情報を売る新聞社にとって、ていのいい小間使いのような存在でしかなかった。
これはうだつの上がらない青年にとってのチャンスだった。
まるで死体となった男から零れ落ちた幸運を青年が拾い受けたように、人の不幸と幸福は均等をとっていた。
よくあるように、ある人物の幸福はある人物の不幸で出来ていた。
衛兵が来て追い払われる前に、現場のすべてを書き留めると青年は走り出した。
いつもネタを持ち込んでいる新聞社の下町の知人宅へ駈け込むのだ。
その知人は非常識な時間の来客に最初は眉をひそめたが、その内容に驚愕し使用人に現場を確認するよう手配して、自らは上司の住む貴族街の手前の上流住宅街へ向かう。
上司はそれを見て、緊急用の貴族街の門を抜ける書類を抱えて馬車に乗り、貴族街から新聞社のある学術地区へと向かうのだ。
こうして幸か不幸か、死んだ男の事件はこの時代としては珍しく異例の速さで号外として瞬く間に王都に知らしめたのである。
他の新聞社より先駆けてこの件を扱えた社は思った以上に儲けを出したし、偶々居合わせた新聞社の小間使いはこれにより学術地区への出入りも許されるようになった。
もちろんそれに見合った報酬も懐に入って、裏町から表通りの下町に移りそこで居を構える事になったし、これは大出世というしかない。
死んだ男が願ったひと山当てたいという願望は、奇しくもその死に様により一晩で願った以上の金を動かしたのだ。
その恩恵を本人が受けることはなかったが。
現場には、暫くするとピリリリと笛の音が聞こえてきた。
衛兵の到着を知らせる笛だ。
現場の凄惨な様子に吐き戻す者も何人かいて、現場保存というには少々心許ない様子だ。
衛兵のひとりはこの首の持ち主を知らないかと、取り囲む住民に聞いているが、生首をまじまじと見たがる人間はあまりいないだろう。
争いの音は聞かなかったか?
変な人間は出入りしていなかったか?と、ひと通りの聞き取りをしているが、夜の夜中の出来事なのだ。
誰一人、犯行現場を見た人はいなかった。
もし見た人がいたとしても、その姿を覚えているかどうかも怪しい話であるが。
そのうち男の名前くらいはわかる事だろう。
だけれど、そこまでなのだ。
ここは、身元もあやふやな人間が好んで住み着く裏町なのだから物言わぬ死体となった今、帰る故郷すら誰にも伝える術はない。
検死という名目で腐臭が耐え切れなくなるまでは、死体は証拠として保管されるかもしれないがそれまでである。
後は運が良ければ墓地に埋葬されるだろうが、悪ければ王都の外の死体捨て場で他の身元不明の死体と一緒に雨に打たれるのだ。
そうして、男は朽ちていく。