370話 ワインです
気付けば辺りは静まり返って、野良犬の鳴き声ひとつも聞こえない。
辺りを歩く者も、酔っ払いもいない。
元々、人通りがある場所ではない。
大体こんな夜中にいい服を着た紳士が裏町にいるなんて、一体どういうことだ。
貴族街への門を締め出されたとしても、表通りには幾らでも宿も酒場もある。
こんな場所まで紛れ込むなんて、絶望的な方向音痴かワザとでしかないだろう。
これは本当に人間なのか?
幽霊っていうのは、こんなにもハッキリと見えるものなのだろうか?
男は何度も紳士を見直した。
まさか「噛みつき男」が若い娘を探して、こんなところまで来たのではないだろうか。
冗談じゃない、それこそ酒場の笑い話だ。
それにしても、どうしてこいつは黙っているんだ。
男は、ゾワゾワと足元から怖気が登ってくるような錯覚を覚える。
薄気味が悪いので、この辺で寝るのはやめていつもの寝屋へ行くことにした。
治安が悪いといっても寝屋は小銭でも金をとるだけあって人もいるし、何より腕に自慢がある輩も蔓延っている。
こんな人気の無い場所で、気味の悪い紳士と2人きりでいるよりも余程安心だ。
そそくさと男が紳士から離れようとすると、ちょっと待ったというように、鞄から何かを差し出してきた。
「これは」
紳士から渡されたのは、どうみても上等なワインである。
「これを俺にくれるっていうのかい?」
紳士は静かにこくりと頷くと、白い壁が目立つ一角を指さす。
「あそこで飲もうってか? あんた変わってるなあ」
ついぞ見た事がないような、美しい瓶の立派なワインだ。
男は途端に上機嫌になった。
普段飲んでるのは店で樽から空き瓶に移された安物で、出自も何も分からないお酒だ。
水で薄めていてもおかしくないような代物。
今、手元にあるのはしっかりとラベルが貼ってあるし、そこにはワインの鋳造所や村の名前が書かれているのだろう。
読めないが気取った飾り文字が、高級であることを証明しているような気がした。
「あんた道に迷ったのかい?」
黙ったままでは気まずいので、とりあえず気になることを聞いてみる。
紳士はこくりと頷いた。
「そりゃあ災難だったな。こんな所まで来ちまってよお。お付きの下男とかともはぐれちまったのかい?」
紳士は男の馴れ馴れしさに嫌悪感を見せることもなく、根気よく話に付き合って首を振っている。
その素直さに男の警戒心はすっかり消えて、同情心まで沸いてでた。
気の毒に、この紳士は口が聞けないのだ。
間違えてこんな裏町に迷い込んでしまって途方に暮れていたのだろう。
高級ワインはうまい話過ぎるが、こんな状況なら身を守る為に差し出すのはおかしくない。
出会った人間が自分よりも悪い人間だったなら、ワインどころか財布の中身も、それどころか身包み剥がされて殺されていても文句は言えないのだ。
裏町というのはそういう場所であるが、大概が子悪党くらいでそこまであくどい目に合う事はないかもしれないが。
本当に悪い奴はわかりやすい犯罪等したりしないものだ。
貴族相手ではさすがに衛兵達も血眼になって犯人を捜すだろうし、裏町に衛兵達が入ってくるのを嫌う住人は大事になるのを避ける傾向にある。
犯罪者として捕まることももとより、場を荒らしたとして住民に吊るしあげられる方が恐ろしいからだ。
「心細かったろう? もう、大丈夫だ。このワインの礼に俺が朝まで一緒にいてやるからよ。今から表通りまで送ってやってもいいが、足元も覚束無いし明るくなるまで我慢してくれ」
ゲラゲラと男は笑いながら話し掛けた。
何が薄気味悪いだ。
真相はこんな他愛もない事だったのだ。
喋らないから気持ち悪いとか思って悪かったな、と後ろめたくなった分、男は陽気にみせていた。
「あんたみたいな紳士には、ここはごみ溜めみたいだろうけど安心しな。ここいらは人は少ないし、追い剥ぎも俺が一緒なら襲っちゃ来ないよ」
無法地帯とはいえ、ある程度の秩序はあるのだ。
誰かのカモを横取りするのは、あまり歓迎されてはいない。
何よりこんな深夜に、こんな労働者か浮浪者しかいない場所に追い剥ぎなどは出ないのだ。
そんな効率の悪い事をするより、とうの昔に女と寝床に入って眠りについているだろう。
実入りの悪い事をする程、暇で酔狂な人間はここにはいないのだ。
紳士が指さした白壁の前に来ると、男はその辺に転がっていた木箱をひとつ拾い上げて壁の前に置く。
「お貴族様の好きな桃花心木とかいう木の椅子じゃなくてすまないけど、ここじゃこれでも立派な椅子さ。立ちっぱなしじゃなんだしな」
バンバンと木箱を叩いて座るように勧める。
男はというと、そのまま地べたに腰を据えてワインの栓を抜いたところだ。
「おお! やっぱり香りからして違うね!どこのワインか知らないが馳走になるよ」
上機嫌の男に紳士はゆっくりと頷いてみせた。