369話 日雇いです
「そういえば夕方前にどなたかいらしたのですか?」
私がそう聞くとルドルフは少し驚いたようだ。
私が気付いていないとでも思ったのだろうか?
「あ、ああ。本館に客を迎えてね。シャルロッテは気にしなくていいよ」
こんな時にお客だなんて。
もし、その人が「噛みつき男」だったらどうするのだろう。
「どなたをお迎えしたのですか?」
兄は明後日の方を見ながら、もごもごとしている。
「私の方でも護衛をね、少し頼んでみたんだ」
護衛は充分いると思うけど、多くて困ることはないわね。
でも、私に隠す事かしら?
不安がっている事を知られたくないとか?
兄としては、妹にそんな所を見せたくないのかもしれない。
そんな事を考えていると、クロちゃんが早く寝なさいというように短く「めぇ」と鳴いた。
皆がそろっているから大丈夫。
きっと、大丈夫よね。
うらびれた家屋が並び、野良犬がゴミ漁りをしている横を酔っ払いの男が千鳥足で過ぎていく。
「おいおい、あんた! その辺にしておきな。潰れるまで飲んでも、楽しかないだろ。『噛みつき男』が出る前に帰んな!」
酒場の主人が、酔った男に声をかけた。
「『噛みつき男』は若い綺麗な娘っ子しか食わねえんだよ。俺みたいな骨ばったのは向こうからお断りさ!」
酔っ払いが大声で返す。
それを聞いて、周りの客も茶々を入れたり騒がしい。
ギャハハッと、下品な大笑いが酒場に響いた。
そういって場末の飲み屋を追い出されたのは、つい先程の事。
男は日雇いで、今は建築現場で煉瓦運びをしているが、あまりいい稼ぎとは言えなかった。
いっそ河岸を変えて葡萄畑やワイン倉で働くかと、口に残る葡萄の搾りかすで作られた安ワインの味を反芻しながら考えてみる。
ワイン倉ならさぞかしいいワインを置いてることだろう。
いや、駄目だ駄目だ。
そんな所で暮らしても、いい酒が飲めるとは保障されない。
せいぜい収穫祭に、振る舞い酒が飲めるかどうかだ。
それどころか、そんな場所の周りには葡萄畑の他には何も無いだろう。
王都ならこんな裏町でさえ飲み屋も女も山ほどあって、金さえあれば日替わりで楽しめるのだ。
親に啖呵を切って村を飛び出したものの、王都では根無し草のような生活が待っていた。
身分を保証してくれる顔見知りもいないのだから、仕方がない。
もっと面白おかしくやれるつもりだったのになあと呟く。
能天気だった若造の頃の自分を思い返すと、苦い思いが込み上がる。
もっと真面目にやらなきゃいけなかったのだ。
かといって今の生活をあらためるかといえば、そういうものでもないのだ。
このままではいけないと思う事もあるが、退屈な畑仕事などにはもう戻れない。
財産も元手もないし、ここはひとつ危険だけれど鉱山で半年程勤めるのも悪くはないか。
なんとか水晶とかいう新しい宝石がどこぞの貴族の持つ山で発見されたからか、ここ何年か裏町でも定期的に鉱山での人足の募集がかかるようになったのだ。
話では人足の為の商売女も雇っていて、毎晩酒も出るという。
出来すぎる話で避けてきたけれど、悪い話じゃあないかもしれない。
高待遇の反面、そうまでしても鉱山の仕事はきついのか人足が居着かないようで、募集が途切れないという話である。
体に自信はあるし、何より割りがいい。
短期で入る分には、いい仕事のような気がする。
次に募集があったら乗ってみようか。
劣悪な環境ならそれこそ逃げればいいし、性に合って山に残るならかなりの金になるはずだ。
どちらにせよ、酒の肴に良さそうな話じゃあないか。
俺はあの鉱山で、ひと山当ててやった!
そう言いながら陽気に酒場で馴染みの連中に奢るのも悪くない。
ぼんやりと、そんな事を考えながら寝床へと向かう。
寝床といっても、雨に当たらないだけの粗末な小屋で、そこを使うにもこの辺を縄張りにする地回りに小銭を巻き上げられるのだ。
そこまで歩くのにも、おっくうになってきた。
潰れてその辺で眠っても、この時期は凍死どころか、風邪もひかないだろう。
せいぜい硬い地面のせいで、体が痛くなるくらいだ。
「なんなら馬小屋にでも、もぐり込むかな」
男は独りごちるが、馬の臭いもさながら踏まれては怪我をしかねない。
やはりそこらの隅でいいか。
夜風が気持ち良く、酒に火照った体を撫でる。
金持ちもいいかもしれないが、今この時は俺もお大尽様と変わらないくらい幸せだ。
夜空も風も地面も今だけは自分のものだと、地面に寝っ転がる。
投げ出して大の字になった右の指先に何かが当たった。
見ると男の横に、紳士が立っている。
「ここは、あんたのような人が来る場所じゃないぜ」
男は急に先程までの多幸感が萎んでしまったような気持ちになった。
自分ひとりの時間を邪魔をされたような、嫌な気分である。
仕立てのいい服を着た紳士と比べたら、自分ときたらなんとみすぼらしい事か。
水を差されたせいで、すっかり酔いも覚めてしまう。
「見世物じゃないんだ。行った行った」
紳士に向かってシッシッと手を振るが、そこから動こうとしない。
バツが悪くて男は立ち上がり、体の埃を払った。
払った所で染み付いた汚れは、ひとつも落ちる訳ではなかったが。
こんな身なりのいい紳士が、裏町の路地にいるなんておかしかないか?
黙って自分の横に立つ紳士が、妙に薄気味悪く思えてきた。