363話 混雑です
花屋へ来たものの収穫は、手紙一通だけであった。
しかも見てはいけないのだから、手掛かりにもなりはしない。
最初から期待はしていなかったが、少し残念である。
砂糖漬けをお土産に貰えたことは良かったし、可愛い花籠もプレゼントしてもらえたので悪くはないのだが。
「素敵なお店でしたね! 花屋に入るのは初めてなので楽しかったです」
ソフィアが嬉しそうに言った。
彼女の仕事は私の日常補佐なのだから、花の手配などした事はないのでもっともだ。
あんなに花だらけの空間は見たことがない。
私も初めての事だったし、こんな用でなければもっと楽しめたのにと残念な気持ちになった。
「手紙を読まないのですか?」
ソフィアが怪訝な顔をする。
確かに、わざわざ足を運んで手に入れた書状だ。
中を改めないのは、不自然に思われても仕方がない。
「家に戻ってからにするわ」
誰も見てはいけないのだから、持ち帰る意味はあるのだろうか?
それとも実は贈り主は恥ずかしがり屋な信者で、この封筒の中には思いの丈と身元が書いてあるとか?
そんな想像は馬鹿馬鹿しかったけれど、それならどれだけ良いことか。
希望的観測にすがって、悪徳の神の注目と天秤にかけるには少々冒険が過ぎるだろう。
でも、このまま持って帰っては、ギルベルトが好奇心に負けて開封しそうだし、どうするのがいいかしら。
「見ますよ」
アリッサが私の手からひらりと手紙を取り上げると、右手の人差し指を立ててみせた。
すると丸く整えられていたはずの爪がニュッと伸びて鋭く形を変える。
普段は突飛な行動をしても普通の娘に見えているけれど、やはり人間ではないのだ。
手紙を見ると言った事も、こうして爪の形が代わった事にも驚いて目を丸くしてしまう。
そんな私を尻目に、アリッサは鋭くなった爪で手紙の封をピンと撥ねて破いて開けて見せた。
中には、想像通り花の柄のカードが入っている。
アリッサは少し眉をひそめてからそれを眺めると、ふっと笑いを零してまた元に戻した。
ああ、アリッサが悪徳の神の名を知ってしまった。
彼女も目を付けられてしまうのかしら?
それとも人ではないので、大丈夫?
もし、彼女の魂が煉瓦の壁の向こう側へ連れて行かれたらどうなるだろう?
悪徳の落ち子対蜘蛛女とかになったら、神話生物大戦争第2弾になってしまう。
勿論、第1弾の主役はクロちゃんとビーちゃんだ。
「大丈夫ですよ。私には読めませんでした」
「え?」
「『Y』から始まってましたが、知らない長い単語だったから、わざわざ読む気にならないんです」
私の心配をよそに、涼し気にそう言ってみせた。
漢字なら篇や旁に注目して読み解く事が出来るけど、この国の言葉は表音文字だ。
文字を読むのに慣れていない人間が知らない文字の羅列を読もうとしたら、声に出しながら1音ずつ確認しないと目が滑ってしまうかも。
確かに日本人だった頃、知らない英単語を目にしても何か英語だなあとしか思わなかったし、気にもとめずに知らないままでほおっていた。
アリッサは家業の琺瑯工房を手伝っていたけれど、そこで表記に使われるのは仕事に必要な簡単な決まった単語だけだったのだ。
ある程度の読み書きが出来ると言っても、文字に親しんでいるとはいえない。
勿論、私の側仕えとなるにあたってその辺りの教育も受けてはいるけれど、突然読書好きにでもならない限り文字に興味は出ないだろう。
識字率の低さが悪徳の神から身を守るというのは皮肉な事である。
ともかく中身の確認は出来たのだから、後でこれは燃やしてしまおう。
持っていても、危険でしかないのだから。
馬車は目抜き通りに戻り、街並みも行き交う人達の服装も華やかになる。
皆が思い思いに、自分達の買い物を楽しんでいるのだ。
従僕を従えて沢山の箱を積み上げている貴族の婦人や、主人の代わりに買い付けにきた召使い。
そんな人の流れが、ある所で止まっていた。
「ああ! ここですね」
そこは外装も可愛らしい菓子屋であった。
老若男女が、店先に列を作っている。
勿論、店内もごった返しているようだ。
「まあ! どうしましょう? シャルロッテ様」
ソフィアが私に伺いを立てる。
自分でお菓子を見て買いたいと主張したのは私だけれど、この店内の混み具合では私のような子供は揉みくちゃにされてしまうだろう。
かといって、客を追い出して貸切にするのは気が引ける。
前もって来店を知らせて貸切るのとは、話が違うもの。
揉みくちゃもだけれど、侯爵令嬢が混雑した店内で買い物をするというのは外聞が悪い。
人気のお店を、甘く見ていた私がいけないのだ。
予定では、ほどほどの客入りの店内をのんびり見ながら買い物気分を楽しむつもりだったのだけれど。
「残念だけど、私が行くのは諦めるわ」
こんなところで、ソフィアを困らせても仕方ない。
馬車の中からソフィアが従僕を連れて買い物に参戦するのを、羨ましく思いながら見送った。
そんな店内の人混みの中に、のっそりと大きな影が動いているのに気が付いた。
その巨漢は、人波を上手くかき分けて店の外へと出てくると、馬車から覗いている私の目と合った。
そうして、いそいそとこちらへと足を運ぶ。
チェルノフ卿である。