354話 変貌です
幸運にもハーブの匂いと混ざるので、既に兄が昼寝をしている部屋からはネルケの花は下げてある。
今日くらいは残り香があるかもしれないが、うまくいけば悪夢を遠ざけられるかもしれない。
「匿名の花の贈り主か。これが色恋の話なら浪漫があって良かったのにねえ」
皮肉そうにギルベルトが言った。
確かにロマンス小説でありそうな事である。
使用人達も、まさか大量のネルケの花が兄に贈られたとは考えもしなかったようだ。
花が届いた日付的に、兄がインク瓶を処分した後に手配されたのがわかった。
もしかしてインクの匂いを辿ろうとした落ち子達が、兄を追えずにうろついてたりしたのだろうか?
迷子の落ち子なんて間抜けだ。
どちらにせよ、兄の手元にインク瓶が無いのを知って急いでネルケの花を贈ったのだろう。
確実に兄に匂いがつくように。
それこそ、金に糸目をつけず。
「『噛みつき男』はお金持ち、という事がわかりましたね」
インク瓶も王宮で渡されたのを考えたら、爵位持ちかそれに相当する上級階級の名士であるだろう。
王宮の使用人か衛兵も考えられたが、ネルケの花を手配出来るのなら人に使われる地位にないことがわかる。
「全体でどれだけ飾ってあるかわかりませんが、先程の家令の話的にも相当な数が贈られたようですし、庶民の月収の何倍にもなるかもしれませんね」
何より、その価値を知っているザームエルが付け加えた。
貴重であるとは思っていたけれど、そこまで高かったのね。
荷馬車でネルケの街から運ぶとすると、運搬費用もバカにならないのはわかるけれど。
「それにしても、本人かその遣いかは知らないけど、特に覚えてないっていうのはどういうことなんだろうね」
ギルベルトが不審そうにそう言った。
「そういえば『噛みつき男』の調査でも、人相については一言も証言が出ていないのですよね?」
私が知る限り、巨漢で白いローブの男が現場にいたくらいしか証言が無かったように思う。
「そんなに特徴が無い顔ということなのかね? もう少しなにかわかってもいいと思うけれど」
「相当うまく隠しているのでしょうね」
そう、とてもうまく人相を隠している。
それは神が憑いているから?
何らかの力で『噛みつき男』を隠していてもおかしくない。
「神の力や魔術的に、人を隠したりする技は考えられますか?」
私の質問にギルベルトの目が光る。
「神の力はわからないけど、人や物の存在を隠したりするのは魔術の得意とするところだろうね。例えば、そうだね。この部屋の扉にそういう魔術を使うとしよう。そうするとどうなるとお嬢さんは考える?」
「扉を隠す魔術ですか? うーんと、扉が消えて壁になって見えるとかでしょうか?」
「うん、そうだね。それも正解だ。他にも扉がそこあるのに、認識出来なくしたりね。そうすることで、この部屋に出入り出来る人間はそれを知る者だけになる。隠し部屋を作るのにたいそう便利なんだよこれが。まあ、部屋の中で大きな音を立てて不自然に思われたり、たまたま扉のある場所を手で触って違和感を感じると見破られてしまうらしいけどね」
「人の気を引く何かがない限りは、バレないと言う事ですか……」
「うん、それこそネルケの花に隠蔽の術をかけてもすぐに香りでバレてしまうだろうね。使い方次第というわけだ。それと同じようにそこにいる人間を目立たなくしたり、肉体を変貌させるものもある」
なんと、魔術はそんなにも便利なのか。
それならば、代償があっても使いたがる人はいるだろう。
犯罪にはもってこいではないか。
誰も彼もが魔術に手をかけたら、この世界はどうなってしまうのだろう。
禁忌として、魔術の存在が隠されたのがわかる気がする。
肉体の変貌というのは、私がクロちゃんとビーちゃんにしたようなことだろうか?
魔術を使った意識はないけれど、あれは元々彼らが持っている不思議な力を私が利用したようなものだ。
前にも考えたけれど、神話の生物や異形の生き物はそういう魔術を利用して隣人として暮らしているのかもしれない。
そうだ、既に私は目にしているではないか。
ドリスとアリッサは、まさに肉体を変貌させていたのだもの。
「では、もし魔術を使っていたら、目撃していても証言が出てこないということですね」
「そうだね。白いローブの巨漢が目撃出来たのは大きな音をたてたか、被害者の悲鳴を聞いて不審に思った人間が目をこらしたのかもしれない。相手が神を降ろしているとしたら、姿も似ていておかしくない。悪徳の神の姿を遠目で見たら、それこそ白いローブの大男に見えるだろうね」
確かに、首の無い白い体の男を見たらローブでもかぶっているように見えるかもしれない。
頭が無い生き物が存在するなんて夢にも思わない人間は、脳内で理解出来るよう補填し修正するのだ。
あれは頭が無い訳でなく、ローブですっぽり隠れているのだと。