351話 冷たき刻印です
「インク瓶……。香水を入れたインクか……」
学者は書付のノートを、トントンと指で叩いた。
「贈り物をつけて寄越すなんて、なんだかおかしいですよね?」
殺されるのにプレゼントをもらうなんて、何だか腹ただしいことだ。
「こちらの警戒心を解く為ですかね? 単なる書状よりは心証がいいでしょう?」
ザームエルが貴族受けのいい贈答品を例に挙げながら返事をしている。
やはり宝石が財産価値もあるし喜ばれるのだそうだが、それ以外にも絵画や刺繍、異国の動物などまで様々なようだ。
インク瓶も贈り物としてなくはないが、実際には揃いの意匠の羽ペンと便箋などとセットで贈られるらしい。
そこまで揃えると大仰になるので、手軽な一品として向こうは寄越したのではないかという彼の意見である。
「まあ、単純に考えてマーキングということかな」
考えがまとまったのか、ギルベルトが語りだした。
「お嬢さん、覚えているかい? 黒衣の貞女が言っていた、かの神の落ち子の特徴を」
まるでテストでもするかのような聞き方だ。
「ええと、目が無くて両手に口があって……。知能が低い?」
「それもだけれど、彼らはどうやって相手を探すのだっけ?」
「音と匂いでしたっけ?」
私は自分の言葉に、はっとなった。
インクが駄目になるほど香水を瓶に入れてしまったのは、匂いの為?
「そう、つけペンを使うと知らず指先がインクで染まることは、ままあることだ。特にお兄さんは学生なのだから、文官か物書き並みに書き取りをするだろう?」
ギルベルトの仮説に、ザームエルがふむふむと頷いて合いの手を入れる。
「指先や袖口がインクで汚染されていると、あいつは物書きだとか言いますからね」
どうやらそんな言い回しがあるようだ。
「学生に匂いを付けたかったら、香水付きインクというのはとても理にかなっていると思わないかい?」
なんてこと。
指をインクで汚して勉学に励む事が、そのまま落ち子への道しるべとなるのだ。
「そうして付けられたその匂いは、悪徳の神と落ち子の為の冷たき刻印と言う訳だ。これまでの被害者にも何らかの形で、香りが付いた物を贈っていたのかもしれない。被害者の持ち物に見慣れないものや生活レベルにそぐわない匂いか音の出る物がないか再確認する必要があるね」
ギルベルトのその意見を聞くと、ザームエルが素早く書面に書き起こす。
王国見聞隊への指示書だろう。
あのもっさりとした学者が、こんなに頼もしくみえる日が来るなんて誰が思った事だろう。
ヨゼフィーネ夫人に見せたいくらいだ。
「お兄様は最近は仔山羊基金の鉛筆を使ってらっしゃるので、余計にインクは不要だったのです」
贅沢三昧な人ではないから、今あるインクで十分だったのだろう。
でも、もしこれが苦学生であったり、生活に困窮する作家であったら、喜んであのインクを使い香水の匂いをさせた事だろう。
そう思うとロンメルに鉛筆を開発してもらって、本当に良かった。
「聖女鉛筆も贈り物には最適ですよね。特注品の模様入りの塗りに金色の名前を入れるのが特に流行っているのですよ」
ザームエルがさすが聖女様ですと言わんばかりだ。
かくゆう私もほら、と文具入れから鉛筆を取り出してみせた。
ロンメルはなんだって聖女鉛筆なんて名前で売り出したのだろう。
自分でその呼称を使うのは気恥ずかしいので、いつも呼び方にいつも困るのだ。
単なる鉛筆でいいじゃない、鉛筆で。
「あら? では、兄様は何故悪夢を見ているのかしら?」
「『Yの手』に相手の名前を刻むだけでも、悪徳の神と繋げる効果があるのかもしれないね。なんだっけ? 犯罪の証拠やら被害者の持ち物を彫像に握らせるとか、そういう話をお嬢さんは聞いたんだよね」
「ええ、ロンメル様から確かに」
間違いなく、そう言っていたはずだ。
そういう手順までわざわざ語ったからこそ、話に現実味が出て怖かったのだもの。
ハイデマリーとコリンナの2人はどちらかというと、得体のしれない呪物に恐怖したようだが、私はというと純粋にそうまでして『Yの手』を使おうとする使用者の執念の方に惹き付けられた。
1番怖いのは人間というヤツだ。
「そもそも。そもそもだよ? 一体誰がその『Yの手』の使い方を、親切に教えてくれるというのだろう? それは全部、後付けじゃないかと僕は思うんだ」
「後付け?」
いわれてみれば、そんな怪しいものに取扱説明書などついてる訳がないのだ。
妖しい本に書いてあるとか?
それこそ幻の「湖水公卿黙示書」の12巻に記してありそうなものだ。
そんなあるかどうかもわからないものを誰かが目を通して、わざわざ噂として広めるなんて考えられない。
貴重な情報は、秘匿したくなるものじゃない?
それとも広めて悪徳の神の勢力を伸ばしたい人がいるとでもいうのかしら?