342話 悪夢です
本日の朝食は、ガスパチョにチキンのサラダとフルーツにしてみた。
他にも本来の朝食用の副菜が並び、物足りない人の為にたっぷりパンも用意してある。
今日のパンはライ麦粉を使用したもので、ずっしりと重く酸味があるものだ。
毎朝、厨房ではいろいろなパンが焼かれている。
どれも穀物の香りがしっかりしておいしいけれど、最初は酸っぱいパンにびっくりしてしまった。
ここではふかふかの食パンは珍しいものになる。
全員に振る舞うことになるとは思っていなかったけれど、皆の口には合うだろうか?
さあ、料理も出来上がった事だし、配膳は任せて兄を起こしにいこうではないか。
もう、起きているだろうか?
少しでも眠れているのならいいのだけれど。
料理をしているうちに私の何とも言えない気持ちも落ち着いてくれたので、足取りも軽く兄の部屋へと向かった。
「兄様、起きてますか? シャルロッテです」
兄の侍従のデニスに付き添って貰って、ノックをしてから部屋の扉を開く。
陽射しを遮断するカーテンが室内を薄暗くしていたが、既に兄がベッドに腰掛けているのは見て取れた。
「おはよう、シャルロッテ。どういう風の吹き回しだい?」
何だ、すっかり目は覚めている様子だ。
「久しぶりに兄様と朝から一緒だし、早起きをしたので来てしまいました」
仕方ないなとルドルフは笑う。
子供といっても一緒にいられる時間はもうそんなにないのだ。
小さな頃はずっと同じ館で暮らしていたのに、今だって既に別々の生活をしている。
わかっていても寂しいものだ。
洗顔の水が運び込まれ、兄の朝の支度が始まるのに紛れて私もカーテンを開けたりしてみた。
夏の朝は眩い。
その明るい陽射しは、目の下に隈を作りあからさまに疲労した兄の姿を露にした。
「ルドルフ様、また今日も……」
その様を見て、デニスが言葉につまっている。
また今日もと言うことは、連日こんな風なの?
主が弱っているのをどうにも出来ない歯痒さが、デニスから伝わってくる。
暑気あたり?
いいえ、昨夜は窓を閉めて寝たくらいだ。
だからこそ、窓を開けた音で目を覚ましたのだもの。
湿気もそこほどない国の快適な貴族の暮らしで、健康な子供が寝不足になるほどの暑さ負けはしないのではないか。
「兄様、何があったの?」
思春期ならではの悩みで眠れないとか?
騎士訓練だって貴族の子供相手に疲労困憊するまではしまい。
何か理由があるのだ。
私の言葉にルドルフは困ったような顔をした。
いや、実際困っていたのだろう。
妹に弱味を見せたがる兄ではないもの。
兄はデニスに助けを求める様に視線をやったが、彼が首を振るのを見て諦めたように口を開いた。
「なんと言っていいか……。笑わないでくれるかい? 実はここのところ悪夢を続けざまに見てよく眠れていないんだ」
情けない兄でごめん、と眉を下げて語る。
「悪夢? どんな悪夢を見ているのですか?」
私は嫌な予感がしていた。
予感というより、それは確信に近いものだったのだけど。
「それがいつも同じなんだよ。夢の中で私は見知らぬ建物にいて、かなり年代を経た煉瓦造りの広い建物でね。あれはどこなんだろう? まったく見覚えがないんだよ」
私は自分の耳を疑った。
「室内には家具も何もなくて、途方にくれているんだ。しばらくすると這いずるような音が壁の向こうから聞こえてきて、私は身を縮めて隠れるんだけれどね。まあ、隠れる場所なんてない訳だけど。そのうち壁の煉瓦が崩れてそこから白い子供たちが溢れて……。シャルロッテ? 大丈夫かい? 参ったな、怖がらせてしまったね」
兄が私を見て驚いている。
「いいえ、大丈夫です。続きを聞かせて下さい」
乾いた声で続きを促す。
きっと、私の顔の血の気は失せているのだろう。
心配そうな兄の眼差しが揺れる。
けれど彼自身、話したいのだ。
だって、あんな恐ろしい夢をひとりで胸に抱えてはいられない。
私にはその気持ちが良くわかる。
「おかしいんだけど、その子供達には目がないんだ。閉じているのではなくて、粘土で塗り込めたようにそこには何もないんだよ。不思議だよね? 後、手に口があるんだよ。支離滅裂だと思わないかい?」
胸の内を吐き出した事で少し気が休まったのか、笑顔が戻っている。
「とても不思議な夢ですね」
何てこと。
昨夜の夢は、私のモノではなかったのだ。
あの夢の違和感。
それが今ならよく分かる。
手の形、指先までの長さ。
走る速度、体の動き。
床までの視線の距離。
何もかも私のモノではなかったから、違和感を感じていたのだ。
第一、よく考えてみれば、私は悪徳の神の落ち子を前にしてあの様に心臓を早鐘のように打ち鳴らしたりはしない。
どちらかというと、深淵の谷へ帰れと怒鳴りたいぐらいなのだもの。
あんなにも恐怖して、ゾッとしたりなんかしてやらないのだ。
全ては兄のものだった。
夢も感情も、恐怖でさえも。
あれは、兄のものだったのだ。