340話 夜半です
「申し訳ありません、起こしてしまいましたかシャルロッテ様」
目を開けると、ラーラが窓辺に立っていた。
あの音は、彼女が窓を開けた時のものだったようだ。
ふかふかの枕、すべすべのシーツ、漂う甘いネルケの花の香り、気怠い夜の帳まで全て寝る前とは変わっていない。
違うとしたら、時間の経過でサイドテーブルに置かれた炎の花が少し小さくなっているくらいだ。
この花も朝になれば、魔力を使い果たしてすっかり消えてしまうことだろう。
窓から流れ込む夜気が、ひんやりと頬を撫でる。
私はほっとしながら、自分の腕を撫でた。
その感触は私に安心感をくれた。
私はここにいる。
戻って来たのだ。
何処かわからないところから、私は安全ないつもの場所に戻ってこれたのだ。
あれは夢?
つい先程までとは違い、呼吸も整い心臓もおちついている。
悪夢を見た後は、起きた後も余韻で恐ろしいものだけれど私の体はいたって普通であった。
あの廃墟を疾走した足の裏も、寝る前と同じく清潔できれいだ。
夢にしてはとてつもなく生々しく、心を蝕むようなものだった。
夢であって、ただの夢ではない。
かといって黄金の蜂蜜飴を舐めた時に見た夢のような浮遊感もない。
あれは、きっと……。
どうして、突然あんな夢を見たのか。
「お顔の色がすぐれませんが、夢見が悪かったのですか? 私がついていますから大丈夫ですよ」
私を起こしてしまった事を気にしてか、水差しからコップに一杯水を汲んでくれた。
侍女の様な真似は、ラーラには似合わないのに。
護衛騎士のはずが、いろいろな事まで気を配ってくれる。
大雑把で大胆な女性なのに、反面そういうところがあるのだ。
目立たない彼女の美点に、皆も気付くといいのに。
あの時も。
蜘蛛の巣の様なドリスの家から、彼女は何も言わずに私を連れ出してくれた。
ラーラだけが、助けを求める私に気付いてくれたのだ。
今もまた、本人は無意識であろうが私をこうして悪夢の底から引き上げてくれる。
あの深淵の奈落から。
あのまま眠っていたら、私はあの頭の無い邪悪なモノと正面から対峙していたのではないか。
そう思うとゾッとした。
「いつも、ありがとうラーラ」
「いいえ、シャルロッテ様。貴女は私が仕える主なのですから礼を言うなど水臭い」
「窓の外にはどうなってるのですか?」
不用意に空気の入れ替えなどする人間ではないのだ。
何かがあってもおかしくない。
既にどこかで、騎士達と悪徳の神の落ち子がやり合っているのではないか?
「それが……。何もないので、気になって」
想像とは反対に、そんな肩透かしな答えが返ってきた。
耳をすませば、特に不審な音は何も聞こえない。
庭木が風に揺れる音。
穏やかな夜半。
「こうして窓を開ければ、不穏な空気の一筋でも感じられないかと思いましたが、今日は平和なようです」
噂の怪異と1戦交えたかったのか、少々残念そうである。
前夜も学者の方には出没していたので期待したのだろう。
平和で何よりだが、退屈そうなラーラを見るとかける言葉がみつからない。
「……。そうなの」
悪徳の神の落ち子が湧き出る可能性のある現実よりも、禍々しい悪夢の方が今の私には恐ろしかった。
現実ならば護衛の騎士達やラーラやクロちゃん達もいるのに、夢の中では私ひとりきりなのだから。
何の力も持たない子供が、あんな異形にどうやって立ち向かえばいいというのか。
あの夢の中では、逃げる事意外は何一つ出来なかったのだから。
あの夢は一体何だったのだろうか。
何かの警告?
悪徳の神の悪戯?
それにしては生々しかったし、腐臭まで感じた。
実際にあの場所はあるのだと思わせる現実味があった。
そして終始感じたあの違和感。
あれは一体なんだったのだろう。
私が私でないみたいだった。
あの夢は何かを伝えようとしていた?
害意があるにしては、クロちゃんもビーちゃんも無防備に寝入っているのを見ると私の身近に目に見えない何かがいたわけでもなさそうだ。
なんだか、訳がわからない。
温かい彼らの体を一度撫でてから、ベッドに入り直す。
寝ぼけた頭では何もいい考えは浮かんではこないだろう。
「夜明けまでは、まだあります。ゆっくりおやすみください」
ラーラに促されて疑問を胸に抱きつつも、私はまた眠りについた。
あの後は悪夢から逃れてぐっすりと眠れたが、さすがに早めに目が覚めてしまった。
なにか、すっきりしないような気持ちだ。
ラーラの報告では悪徳の神の落ち子は現れなかったらしく、日中の護衛は他の者に任せて引継ぎ後に朝の鍛錬をしてから睡眠をとるようだ。
すぐに眠ればいいのに、鍛錬までするとは勤勉な事である。
ラーラは二晩寝ていないはずなので、朝食は消化の良いものを用意してもらおうか。
いや、兄の暑気あたりの事もあるし、陰鬱な気持ちを吹き飛ばす為にも、朝食を作らせてもらおうと思い立った。