339話 果てです
「み ぃ つ け た あ」
「み ぃ つ け た あ」
「み ぃ つ け た あ」
「み ぃ つ け た あ」
「み ぃ つ け た あ」
「み ぃ つ け た あ」
「み ぃ つ け た あ」
ぼこり
音を立てて、私の目の前で煉瓦の壁が崩れていく。
穴からはいくつもの手が、イソギンチャクの様にひしめき合って生えていた。
所狭しとそれは暴れて、穴を崩して大きくしていく。
その手にある口全部が、合唱するかのように私をみつけて、声を上げながら煉瓦を崩しているのだ。
ああ、あれはいつだってこんな壁を壊す事など造作もなかったのだ。
ただ、ただゆっくりと時間をかけて弱火で調理する様に、人の心を恐怖で煮込んでいただけなのだ。
見つかったのだ。
そうして、この体はあの手の平にある口で貪り咀嚼されるのだ。
逃げ場を。
逃げ場を探さないと。
どこかへ逃げなければ。
だけど、どこにも逃げられない。
無力な人間は、ここで震えてあれが入ってくるのを待つことしか出来ないのだ。
ふと、後ろを見ると壁であったはずなのに、そこは長い通路に変わっていた。
目の前の壁はガラガラと音をたてて崩れて、既に瓦礫の山と化している。
もう私とあれらを隔てるものは無くなったのだ。
土埃が舞い、視界を遮ってはいるが白い嬰児と子供達がのそのそと、瓦礫を乗り越えこちらへと向かって来るのが見える。
震える膝を叩いて、血の気を戻す。
動いて、動いて、動いて。
恐怖に固まる体を叱咤する。
ここで果てる訳にはいかない。
通路があるのなら、それはきっと他の場所へと続いているのだ。
やっと動き出した体は今までの硬直が嘘のようにバネの様に飛び跳ね、迷うことなく通路と変化したそこへ逃げ込んだ。
はやく。
はやく。
はやく。
少しでも速く足を動かして離れなければ。
素足で石造りの床を蹴る。
足の裏が痛い。
ざりざりとした感触が気持ち悪い。
脇道のないただ一直線の廊下を駆け抜ける。
何かがおかしい。
何かが変だ。
私はこんなにも早く走れたのかしら?
だけれど、私にそれを考える余裕はなかった。
この体は今、生き延びる為に走る事しか出来ないのだから。
遥か後ろではのそのそとだが、あれらが声を上げながら確実に私を追って来ているのだ。
「ま っ て え」
「か じ る」
「か む」
「か ま せ て え」
「お い し い」
「う ま あ い」
口々に言葉を発しながら、追いかけてきている。
知能が低いと思われるあれらは、その意味をわかっているのか?
ただ、人の真似をしてそう言っているのか?
わかっていてもいなくても、この体を怖がらせるには効果的な言葉選びであった。
肺が破れるのではないかという程、荒く呼吸を繰り返し、あらん限りの力を振り絞って永遠に続くと思われる長い長い廊下を走る。
暗闇に目が慣れたとはいえ、灯りがないのであまり先まで見通せない。
この廊下は何処まで続いているの?
こんな長い廊下が存在しているの?
そんな疑問が頭が過ると共に、視界が開けた。
ふっと周りの圧迫感が無くなる。
体が反射的に足を止めた。
広い空間に出たのだ。
古びた煉瓦が積まれた今までの場所とは違い、ここは比較的新しく思えた。
整然と並べられた煉瓦はそれほど昔のものには思えない。
首が痛くなる程、壁は高く聳えて先が見えないほど奥行きが広がっていた。
そしてそれらには何か紋様のような記号が彫られている。
文字?
呪文かしら?
判読出来ないけれど、その模様は文字のように思えた。
これは呪いの言葉なのか、寿ぎの言葉なのか?
何かを封じるためのもの?
それとも讃えるためのもの?
指でなぞるが、何もわかりはしなかった。
だけれど、それが隙間なく彫られている事で、ここが特別な場所なのだと知ることは出来る。
壁の紋様を触りながら奥へ足を進めると、ぬちゃりと足元の様子が変わる。
それは不潔で不浄で不愉快で、素足の足の裏から何かが侵食してきそうな気持ち悪さを持っていた。
それとは別にぞくりと、背中を寒々しいものが走る。
何かがこの奥にいる。
じっと沈黙を守って。
何かがいるのだ。
袋小路の最終地点。
追い詰められ追い込まれた憐れな人間の辿り着く場所。
この通路の果ての広間にいるのは
煉瓦造りの遺跡の寝所に鎮座するのは
この煉瓦の壁の遺跡に囚われた人間が辿り着いた場所で待つのは
白い 白い 白熱する溺死体のような
大きく 醜く 掌に穢れた口を持つ
首の無い
バタンッ
と、どこかで音がした。