338話 煉瓦の壁の向こう側です
かりかりかり
ああ、その音は煉瓦を繋ぎ合わせている漆喰をあちら側から爪で削っている音なのだ。
それとも歯で噛み砕いている音かしら?
そうしてひとつずつ邪魔な煉瓦を外しながら、この壁に穴を空けようとしているのだ。
執拗に続くそれは、私がここにいることに既に気付いている証ではないだろうか。
この体と血潮を食むのを楽しみにしながら、壁を崩しているのではないだろうか。
ごとん、ごとんと音を立てて、分厚い煉瓦の壁は少しずつ切り取られていく。
大丈夫。
大槌を振るって壊している訳ではないのだもの。
そうそう壁が壊されることは無いはずだ。
爪で漆喰をほじくりながらでは、人ひとり分の通る穴をあけるまでに相当な時間がかかる事だろう。
唐突に三匹のこぶたの童話を思い出す。
狼に藁と木の家を壊され追い立てられ、煉瓦の家で身を寄せ合うこぶた達。
まさかその気持ちに共感できる日が来るとは思わなかった。
こんなにも恐ろしかったのね。
もしここに暖炉があったら、やはり煙突から侵入されてしまうのかしら。
あの狼がもっと根気がよかったら、こうして漆喰を削りとっていたのかもしれない。
七ひきのこやぎの童話はどうだったかしら?
あれは、おかあさんやぎに化けて狼が家に入ってくるのだった。
姿を装って中から扉を開けさせるのだ。
そんな話をどこかで聞かなかった?
妖しいモノ達はそうやって、人の縄張りに入ってくるのだって。
どちらも家に入られたら、その次はこの肉を食らう為に皮膚を破って私の中に入ってくるのだ。
逃げないと。
狼が迫ってくる前に逃げないと。
こぶたは煉瓦のお家で守られたけれど、ここには暖炉でグラグラと煮えたぎるお湯の入った大鍋も火をくべる薪の一本もない。
身を隠すにしても、こやぎが隠れた大時計も何一つないのだ。
大声で笑いたくなる衝動に駆られる。
私はこぶたでも、ましてやこやぎでもないのだ。
赤ずきんのように頭から食べられて、そのまま胃の中に収められるしかない。
そうして消化されながら、くるはずのない猟師を胃袋の中、微睡みながらまつのだろう。
ここからどうやって逃げるというのだ。
逃げ場?
逃げ道?
何も無いがらんどうのこの部屋から、何処に行けばいいというのか。
ぽっかりと空いた穴が見えた。
窓がある。
あそこからなら逃げだせるかもしれない。
一縷の望みを持って、この体はそちらへと向かった。
壁の向こうのモノ達に気付かれないように、そろそろと体を移動させる。
あの稲光が差す窓へ。
逃げるとしたらあそこしかないのだ。
ゆっくり、そろりと。
少しでも急げば恐怖に呑まれてしまうかのように、慎重に移動する。
ごとん
また、ひとつ。
壁の向こう側で煉瓦が取り外される音がする。
ようやっと窓というには朽ち果てた穴にたどり着き、その縁を掴んで外を見やる。
そこに広がるのは昏い昏い横たわる闇。
深淵の谷。
果てのない闇ばかり。
そうして落胆する。
ここには生ける人間の逃げ場など無いことに。
この窓は、ここから逃げられるかもという希望を人に抱かせる為だけに壁に穿たれたに違いない。
そんな悪意の作り物。
そうして儚い希みを砕くことで、この身により一層の絶望を刻みその魂に味付けをしているのだ。
かりかりかり
ごとん
厚い煉瓦の壁の向こうで幾度も繰り返す音。
失意のまま何も出来ない人の体。
この音を聞かせるのさえ、音楽を聞かせて美味しい野菜を育てる農家のように意味があるのかもしれない。
人の心を暗く蝕み、恐怖に満ちた一品にするのだ。
そうして深淵の何かに育てられた哀れな人の心の味とは、一体どんなものになるのだろう。
かりかりかり
ごとん
とうとう、目の前の壁から煉瓦がひとつ零れ出た。
とうとう、煉瓦ひとつ分の穴が空いた。
そんな小さな穴ならまだ大丈夫。
そんな穴では覗くくらいしか出来やしないのだ。
まだ猶予はあるのだ。
暗いその穴を凝視していると、そこから白いものがゆっくりと、にゅるりと、のっそりと、何かが出てきた。
それはぶよぶよとした5本の指。
芋虫のように、暗闇の中を行く当てなくごそごそと蠢いている。
煉瓦1個分の穴から出せるものはそれくらいだ。
大丈夫、まだ自分は安全だ。
そう言い聞かせていると、ぴたりとそれは動きを止める。
そうしてから、ぬっと手の平まで出てきた。
暗闇に浮かぶ手の平から目が離せない。
そうしてゆっくりと、その手の平の真ん中に裂け目が現れた。
そうしてその裂け目は、ねっとりと開いてみせる。
そこには、出来の悪いトウモロコシのように歪な歯が並んでいた。
「み ぃ つ け た あ」
その口から掠れるような醜い声が絞りだされた。
それは歓喜の声。
砂漠で水を見つけた時のような声。
渇きを癒す物を見つけた時の声。