337話 廃墟です
「ずっと付いていますから、安心してお眠り下さい」
項垂れた様子を怖がっているととったのか、優しくラーラは微笑んでくれた。
ほら、こんなに優しくて女性っぽい部分があるのに、ハンプトマン中将達の目は節穴なのだ。
もう少し突っ込んで女同士の話がしたかったけれど、夜が更けるにつれ瞼が重くなる。
いくら話をしたくとも、子供の体は睡眠に非常に弱いのだ。
大人ぶってみても、夜遅くまで起きている体力も気力もない。
夜中に悪徳の神の落ち子が現れるかもしれない中、呑気かもしれないが子供の眠気というのはどうしようもならないのだ。
炎の花を乗せた灰皿を傍らに、ラーラのドレス姿を思い描きながらも私はウトウトと眠りに囚われていった。
何処か遠くで獣の咆哮のようなものが聞こえる。
風の音も激しい。
気がつくと何故か私は、闇の中冷たい床の上で壁に身を寄せてしゃがんでいた。
目に映る部屋の中は、まったくのがらんどうである。
家具のひとつも見当たらず、あるのは壁や床に染み付いた汚れとゴミと砂ぼこりばかりである。
息を潜めていても呼吸の音が響いてかえってきそうなくらい、閑散としていてこの部屋には何も置かれていない。
窓らしき場所にはカーテンがかかっておらず、外気を遮断する羽目板も硝子も入っていない単なる穴と化している。
時折、光がその穴から差し込み、部屋全体を闇に浮かび上がらせているのは稲妻であるようだ。
扉も無く、壁に穴が開いただけの空間。
ここはどこ?
埃臭さに混じって腐臭が漂う。
床や壁にへばりついている干からびた肉や血が、ここが危険な場所であることを教えてくれていた。
夜中に天気が荒れるなんて話は、無かったと思うけど……。
いや、なにを暢気なことを考えているの。
どう考えても、ここは尋常な場所ではない。
ぼんやりと置かれた状況を振り返る。
私は確かに、ラーラに見守られながら眠りについたはずである。
暗闇でも掃除が行き届いていないことがわかる不潔な埃っぽさ。
建物は重苦しく冷たい。
壁肌は、規則正しく煉瓦が積まれ漆喰が塗り込まれているが古びてところどころ欠けている。
足の裏のざらつきと冷たさが、自分が素足であることを教えてくれた。
廃墟?
打ち捨てられた城?
ここは一体どこなの?
まるで絵にかいたようなホラーな空間。
何があってこんな場所で、私はこんな風に縮こまっているのだろう。
この体は恐怖していた。
今でも泣き叫びたいのを我慢して、息が漏れないように自分の両手で口を抑えている。
恐怖も、命の匂いも自身のひと欠片も一切外に出さないように。
壁に体を預けているのに、心は休まる事はなく一向に震えは止まらない。
それは私の感情ではないのに、この体が教えてくれている。
恐ろしくもおぞましき何かが、ここにいるのだと。
忌まわしき悪しき何かが、ここにいることを。
呼吸は浅く、心臓は破鐘の如く打ち鳴らされ、四肢の先端は緊張からか氷のように冷えている。
何だか違和感がある。
自由に体は動かせないし、感情も私とは別の物のようだ。
まるで私じゃない誰かみたい。
ふと、どこかで何かが這いずるような音を耳が捉える。
耳を澄ませているが、心臓の音がとても五月蠅くて邪魔だ。
まるで狂ったように打ち鳴らして、体の外へ生命を誇示しているかのようだ。
それでもじっとして音をさぐると何かが這いずる音と、ペタペタと裸足の足音がする。
分厚い煉瓦の壁の向こう側で、何体もの何かが蠢いているのをこの体は知っているのだ。
この体は恐怖している。
何かから隠れる様に、懸命に息を止めようとしている。
その荒い呼吸が誰にも聞かれないように。
この体は祈っている。
あの音を立てるものに、どうかみつかりませんようにと。
ゆっくりとにじり寄ってくるあの音。
あれは自分を見つけて捕食するものだと、まるでこの体は知っているかのようだ。
かりかりかり
這いずる音や足元とは別に、何かを引っ掻く音がした。
壁に耳をあてる。
耳伝いに、何かが煉瓦の壁を崩そうとしているのではないだろうか。
もし壁が崩れたら?
このままでは見つかってしまう。
この体は、為す術なく縮こまるばかりだ。
ずるずるずる
ぺたぺたぺた
かりかりかり
何もない暗闇の中、もう聞き耳を立てなくとも苛むかのようにひっきりなしに音が届く。
隠れる場所も無く、動く事も出来ずただしゃがんで煉瓦が崩されていくのを聞いているしかない。
絶望がひたひたと忍び寄ってくる。
煉瓦に穴が空いたらどうなってしまうのだろう。
自分もこの壁にへばりつく、腐った肉片のひとつになるのだろうか。
それともこの頑丈な煉瓦の壁は崩れる事無く、あちらとこちらが繋がる事はないかもしれない?
そんな希望を描いてみてもそれは霧散してしまう。
ごとん
ほら、向こう側でひとつ煉瓦が外された音がする。
ぱらぱらぱら
そんなことを考えているうちに、目の前の壁から粉がこぼれて落ちていた。