334話 眠りです
「ああ! 侯爵令嬢、お気を落とさないで下さい! この花は各自のベッドサイドに置くのはどうでしょう? 万一、落ち子が部屋に侵入しても花をぶつければ退治出来るでしょう? そう思うと、とても心強く思います。それに美しいものは塞いだ気持ちを明るくしてくれますので、是非置かせてはいただけませんか?」
しょぼくれた私に、なんて優しいんだろう!
「ザームエル・バウマー様、いつぞやは差し出がましい真似をした私を許して下さい。お優しくしてくれてありがとうございます」
ちょろいかもしれないが、私の心の底からの言葉だ。
こうまでされないと謝れないとは自分が情けない。
「何をおっしゃいますか! 侯爵令嬢のお陰で私には新しい道が開かれたというのに。それに炎の花については本心からですよ。相手は、わからない生き物相手なのですから」
バウマーは上位貴族に謝罪されてか、アワアワとしている。
何だか、かえって悪い事をしてしまったようだ。
「バウマー様……。いえ、ザム様とお呼びしてもよろしいかしら? 私の事もシャルロッテとお呼び下さい」
「はああ! シャルロッテ様、このような栄誉をありがとうございます」
興奮してザームエルは、大きな声になっている。
とても感情が豊かなのね。
反対に学者は呆れ顔で私達を見ていて、少々気恥しかった。
「部屋に置くのは僕も賛成だな。お嬢さんもそうするといい。我々の脚力で落ち子を蹴飛ばして退治するのは可能かわからないけれど、盲目のあれ相手に炎の花をぶつける方が勝算がありそうだ」
とりあえず私の考えた形とは違ったけれど、採用されることになった。
お茶の受け皿では何なので、使用人に持ち手の付いている灰皿を用意して貰って各自が寝る時に傍らに置く事にした。
縄張りの話を聞いたけれど、あれはギルベルトの一説に過ぎない。
突然お邪魔しますといって入って来てもおかしくないのだ。
どうか部屋まで来ませんように。
エーベルハルトのタウンハウスといえど、別館に泊まるのは初めてである。
そのせいかちょっとした外泊気分だ。
落ち着いた内装の部屋は居心地よく整えてあるし、誰かが気を利かせたのか花瓶にはネルケの花が活けてあった。
フリルを何枚も重ねたようなかわいい花。
王都で新鮮なネルケの花を扱う店はあまり多くないと聞く。
私が帰ってくると聞いて、急いで用意したに違いない。
その甘い香りに記憶が呼び起こされる。
ネルケの街に泊まった日。
あの頃はまだ王子の顔も知らなくて、お茶会にだって参加したことがなかった。
それが今では、王宮に住んでお茶会を開催したり、何といっても王子の婚約者なのだもの。
人生なにが起こるかわからない。
それにネルケの街では初めて神話の生物の脅威に触れたのだ。
高慢の種の事を思い出すと、今でも冷や汗がでそう。
自分が自分で失くなってしまう恐ろしさ。
とても言葉に出来るものではない。
悪徳の神も悪意を持って、こちらへやって来るのだ。
年若い無辜な女性ばかりを凄惨な死へ追いやった化け物。
私は決してその名前を呼ばないし、許しはしない。
噛みつき男も悪徳の神も、平穏をその口でかみ砕くモノなのだ。
「シャルロッテ様、そろそろお休みになりますか?」
いつもは扉の外で護衛待機しているラーラが、今日は室内で仁王立ちをして窓や部屋の外を警戒している。
この人はいつも真面目だ。
椅子を勧めても一向に座ってくれない。
「何度も言うようだけど、せめて座ってくれないと落ち着いて眠れないわ。私の事を思ってくれるなら椅子に座って、ね?」
ラーラは腰掛ける気はないようで、何か反論しようとしたがそれをやめたようだ。
夜も更けて来たせいか、子供の私が眠れないと訴えたのは効果があるらしい。
扉のそばに1人がけの椅子を移動させて、そこに姿勢良く座った。
「お言葉に甘えて、失礼します」
ふう、これで多少は寝やすくなったかも。
人を立たせて自分だけ寝るなんて、そこまで図々しくはなかなかなれないもの。
ラーラが座るのを見届けてから、私はベッドに潜り込んだ。
同時にするりとクロちゃんもシーツの下に入ってきて、ビーちゃんもその背中の膨らみにとまる。
この子達なりに私を守っているのか、甘えているのかわからないけれど愛らしい事にはかわりなかった。
「ラーラはいつ眠るの?」
「明日の昼間に眠ろうと思ってます。ずっと起きていてもいいのですが、睡眠を挟んだ方が体が動きますので」
「眠らない訓練もしたの?」
「ええ、戦が始まれば夜通しの行軍もありますので、眠らない訓練と眠る訓練をしましたね」
懐かしそうな顔だが、何だか過酷そうでそんな表情で思い出す事なのか疑問に思ってしまう。
「眠る訓練?」
「ええ、何時でも何処でも眠れるようにするんです。人間の体にとって睡眠は必要ですが、さあ寝ろと言われてすぐに眠るのは出来ないでしょう?なので野営時にはその訓練も兼ねるのです」
確かに私も、この時間には眠らないといけないのにラーラとおしゃべりがしたくて起きている。
考え事があれば延々と頭の中で自問自答して眠れないし、世の中には不眠症なるものもあるもの。
睡眠を自在に操れるのは、騎士や兵士にとっては強みなのであろう。