323話 稀覯本です
「悪徳の神の落ち子はどんな様子なのかな? やはり手に口がついていたのかな?」
お茶を飲んでひと息いれてから、学者に改めて質問された。
人の事は言えないけれど、どうにも知りたがりである。
「そこはお伝え出来ませんわ」
「ええ~! 教えてくれてもいいじゃないか。僕は全部知っていることを君に話したのに」
懇願するかのように手を前で組んで私を見つめる。
「解決策がないのだから、今は知りすぎてはいけないでしょう?」
「今更じゃないか!」
悲鳴にも近い叫びだ。
そうまでして、知りたい事でもないだろうに。
でも言われてみればそうかもしれない。
先ほど見掛けると言っていた白い影は、落ち子の事に違いない。
両手に口があるのは悪徳の神と同じなのだから、特に隠すことはないのかも?
確かに、今更と言われたらそうである。
本当に情報の線引きが難しい。
一応、言葉を選びながら落ち子の外見を伝えると、その情報は学者にとってはそう意外性はなかったようだ。
「ああ、被害者の小さい方の噛み跡はそれか」
大して驚きもせず、彼はふんふんと頷きながら呟いた。
助手と一緒に歯型から推測される年齢を資料から確認している。
言われてみればそうなのに、落ち子の出現や彼らが目を付けられた事に気を取られて、私はこんな簡単な事に気付けなかった。
自分の視野がかなり狭くなっていたのを確認する。
単純な事でも見落としてしまうのだ。
考えが偏る事を考えれば、ひとりで情報を抱えてもいい事ではないのが身に染みたと共に、巻き込んでしまったが一緒に取り組んでくれる味方がいる事の心強さを確認した。
「そういえばギル様は『湖水公卿黙示書』なる本をご存知でしょうか?」
おっ、とギルベルトの口から感嘆の様な言葉が漏れる。
「君の口からその題名を聞くとは感慨深いね。どこの隠者か信仰者から聞いたんだい?」
この口ぶりだと、ギルベルトも知っているのだろう。
実在する本であるのは確かなようだ。
「そういう身の上とは関係ない、正反対の商売人からですわ」
「なんと神秘も金儲けに利用されてしまいそうだ。まあ、貴重な文献であることは事実だしね。神話の生物のあれこれが書き綴られているから、好事家には垂涎のものだよ」
それはかなり希少価値がありそうだ。
「その人が言うには、12巻に悪徳の神について書かれているそうなのです」
「12巻?」
ギルベルトが怪訝な顔をする。
「ん? 『湖水公卿黙示書』は全11巻のはずだよ? 手稿本だから世に出ていない追記をまとめたものがあるかもしれないけれど、それならそれで噂くらいにはなりそうだが……」
眉をひそめて怪訝そうだ。
「まあ、では図書館や資料室にはないのかしら?」
「ものがものだからね。もしあっても全11巻全て揃えている人間はいないと思うよ。揃えるどころか、すべて読んだ人間もいるかどうか。よしんばいたとしたら、それはもう人でないものに成っているんじゃないかな。あれらは人の精神を蝕む内容だからね」
そんな危険な書物なのか。
そう言えば「屍喰教経典」なる本も、読むと人を食べたくなるとか言っていたっけ。
そういう本を書いた本人はどんな人なのかしら?
恐る恐る怪異へ挑んだ人?
命を投げうってでも人の営みを護ろうとして筆をとった勇敢な人?
それとも、人ならざる者が悪戯に書き記したものなのだろうか。
「ほら、妖虫を覚えているね? あの忌々しい高慢の種」
「ええ、忘れようはずがありません」
「あれの撃退方法が載っているのもその本なんだよ。確か7巻だったね。その一部の書き写しを僕が所蔵しているというわけだ。1冊の1部分だけでも手に入れるのは大変だったんだよ。それが話に出た事のない12巻とは……」
非常に興味深いが、確かめる術もない話のようだ。
私をごまかす為に、体のいい話を作ったかもしれないと思うと、ルフィノ・ガルシアはうまい事やったものだと言わねばならない。
幻の様な書物ならば、本当に悪徳の神の事が書かれているかいまいか誰も確認することが出来ない。
そんな事をするとは思えないけれど、真偽のわからない本である以上そう考えてしまう。
「いや、考えようによってはそれはとても信憑性がある話かもしれない」
「そうですか?」
「知ってはいけない悪徳の神について書かれているのなら、その本の存在も隠されていてもおかしくはないと思えないかい? 11巻までの内容で考えれば悪徳の神の召喚や退散について書かれているに違いない。そしてそれを目にするという事は、悪徳の神に目を付けられるのと同義だ」
「ええと、12巻をまったく関係ない人が手にしてしまうと悪徳の神が来てしまうから特に秘匿されたと?」
「その通り。目を付けられた者と悪徳の神の信仰者だけがその本に用があるというわけだ」
ギルベルトにそう言われてガルシアを疑ってしまった事を私はちょっぴり反省した。
「今、僕達が手に入れるべきものではあるが、存在自体が知られていない訳だからまさに雲を掴むような話と言わざるをえないね」
調べてみるとは言ってはくれたが、そうそう見つかるようなものでもないのはわかる。
その本は最終手段として他にすぐ打てる手を考えないと。
ちょっとこっちが興味を持ったらやってくるなんて、面倒臭い自意識過剰のおっさんの様だ。
会社の給湯室で「あの人ってこうなんですね」とか軽く同僚と噂話をしたのを聞きつけて「君は僕に興味があるんだろ?」と押しかけてくるタイプの勘違い男。
なんだかそう思うと、無性に腹が立ってきてしまった。