319話 言語です
では「Yの手」と共に「噛みつき男」の童謡が広まったのだろうか?
「王都の図書館や王国見聞隊の資料室を漁って『噛みつき男』の歌を調べてみると、王国周辺や大陸の東側の国では似通った歌詞であるのに対して、大陸の西に向かうと『願いを叶えてくれる』と変容しているんだ」
学者の大まかな説明によると、大陸を東西に分けると東では『噛みつき男』を警戒して『名前を知ってはいけない』と謡い、西では『名前を呼ぶと願いが叶う』という内容に変わっていくらしい。
同じモノを指しているはずなのに、何故扱いが違うのか。
「西のどこかでは、『噛みつき男』に願掛けをする土地があるのか、それを利用していたのかもしれないね。血生臭い事を考えると呪術として邪魔者を殺すということだ。『Yの手』が東から人の手を渡って西で隠匿されて近年利用されていると思えばおかしくないかな」
そう、ルフィノ・ガルシアは言っていた。
「Yの手」とは願いを叶えるものだと。
「グローセンハング共和国の方に伺ったのですが、『Y』とは悪徳の神を指しているそうです」
私の言葉に学者が簡易的な大陸の地図を広げた。
その表情は嬉しそうだ。
「お嬢さんお手柄だ。資料も大事だけど現地の人間の生の話は大変貴重だ。つまりこの国周辺では『Yの手』が我々が考えるよりも身近に、手の届くところにあるのかもしれない。そしてそれを利用しているのなら童謡の内容が変化するのもわかる」
ザームエルもふむふむと頷きながら、地図を覗き込んでいる。
「元々は東の国にあって、持ち出されるなり手放されたりして人づてに大陸を横断したのか、それともそれを携えて旅をした人がいるということかな」
最初は忌避するものとして、禁忌として国外へと処分されたのかもしれない。
そんなものを壊せば、祟られると考える人間は多いだろう。
誰だって禁忌には触れたく無いものだ。
手元に置くのを嫌い、かといって壊すことも放置しておくことも出来ず人の手を渡るうちに誰かがその真価に気付いたのだ。
これは人を殺す道具だと。
狙った人物へ悪夢を見せ、弱らせて、時には堕落を誘いその心を殺すのだ。
善良な人間を減らすには、いい道具ではないか。
「噛みつき男」とは、そんな欲望が人の形をとったものなのかもしれないと説明を聞きながら私は思った。
「それで……、それでこの紙に書かれた言葉は……」
どう見ても日本語である。
この国で過ごしてきて、一度もお目にかかることのなかった前の世で親しんだ言葉。
まさかこんなところで、目にするとは思ってもみなかった。
「噛みつき男」の話に集中したいというのに、私の意識は自然とそちらに向いてしまう。
「ああ、この下に書いてある見慣れない文字が気になるのかな? ジーアンテュア語だよ」
聞きなれない単語だ。
「ジーアンテュア? この世界にこの言葉を使っている場所があるのですか?」
私はなるだけ、声が震えない様に務めた。
この世界が、あの世界に似通っているのはわかっている。
元々は同じモノだったのだもの。
同じ生き物や植物があるのも、同じ様な文化があることも。
でも、日本に似ているものも日本語も、今まで見た事がなかったのだ。
「おや? 流石のお嬢さんでも知らないか。この国では普段、極東と呼ばれている国の言葉だよ」
極東、大陸の最東端。
地図を見ると本当に東の端にかろうじてぶら下がるような形でくっついている国であった。
ほとんど島国といってよい。
ジーアンテュアなんて日本っぽくない国名なら、私が今まで気付かなかったのは仕方がない。
日本語を使っているというなら、そこには日本人がいるのではないだろうか?
そしてきっと、いや絶対に醤油と味噌と米があるのだ!
だって、日本人は食に異常に情熱をかけるものだもの!
「その国の本や資料はありますか? もしかしてこの国に、その国の客人がいたりは? 実際に足を運ぶとしたらどのくらいかかります?」
興奮気味の私の矢継ぎ早な質問に、ギルベルトとザームエルが驚いている。
「ちょっ……、ちょっと落ち着こう? 一体どうしたんだい」
そんなに捲し立てた訳では無いと思うのだけど、ギルベルトの焦る様子を見て少し頭が冷える。
「はっ! 申し訳ありません。知識に無い国でしたのでつい……」
「令嬢は噂に違わず、勉学への情熱があるのですね」
ザームエルがフォローしてくれたが、何だか気恥ずかしい。
「ええと、極東についてはあまりこちらでは知られていないんだよ。だからあの国のものといっても先人が集めた稀覯本や、隊列を組んで大陸を旅する商隊が持ち込んだものや噂話くらいしかないんだよね。あそこは国交を閉じている事も大きいんだけど」
なんと、鎖国をしているの?
肉饅などの中華料理らしきものは料理本や紀行本で見るけれど、日本料理を見聞きしないのはそのせいかしら。
まあ、飛行機も車も無いのだから大陸の端なんて、この国から見たら宇宙と同じくらい遠いものかもしれない。
この足でその土地を踏むのは叶わないというのか……。