316話 持ちつ持たれつです
「おお! 後ろにいらっしゃるのは『黒衣の貞女』様ではありませんか? 貞淑で慎み深いと評判の貞女様にまでお目通りいただけるとは、今日は何と善き日でしょう!」
顔を隠した黒衣の貞女は、その言葉に少し頭を下げていつものように沈黙を守ったままだ。
貞淑で慎み深い、ね。
目を輝かせるザームエルに、私達は笑いをこらえるのが大変であった。
そうね、今のアリッサは何といっても教会を後ろ盾に持つ敬虔な「黒衣の貞女」なのだもの。
そんな彼女に会えるのは、確かに名誉な事なのかもしれない。
普段はギルベルトの研究棟で、気さくに声を交わしている2人なのだから、顔を黒いレースで隠しているとはいえ、背格好からアリッサだと気付かれてもおかしくはないと思うのだけれど意外にも気付かれていないようだ。
予想以上に、ザームエルは緊張しているのか、舞い上がっているのかもしれない。
「そうそう。バウマー様には、アリッサもお世話になっていると聞いておりますわ。彼女は私の縁者ですの。これからも良くしてあげて下さいね」
意地悪かもしれないが、気付くかちょっと試してみる。
ザームエルは私の言葉に飛び上がるように驚くばかりで、そこにいるアリッサ本人には気付かない。
「なんと! ずっとアインホルンの家の者かと思っておりました。水臭いじゃないかギル。まさか彼女がエーベルハルト侯爵家の関係者だなんて。ちゃんと教えてくれよ」
そういって、学者を肘でつついている。
「ええ、アリッサ君とは、仲良くやっておりますよ。大概は窓辺で日向ぼっこをしたり昼寝をしておりますが、私の手伝いもしてくれるしお茶を一緒にとったりおしゃべりの相手をしてくれています。いやあ、彼女がエーベルハルト侯爵家の……」
ペラペラとアリッサの研究室での振る舞いを話してくれる。
ザームエルはきっとアリッサの事を侯爵家の農業区の娘か、料理人あたりの使用人の娘だと判断をつけているのだろう。
彼女の立ち振る舞いから、貴族ではないのは明白なのだし。
侯爵家の領地の琺瑯職人の妹と紹介してもいいのだが、アリッサの私生活を切り売りする気は私にはなかった。
彼女が軽んじられず快適に過ごすことが出来るのが一番だ。
とりあえず、ギルベルトのところでは彼女が羽を伸ばしてのんびりしているらしいのがわかって安心する。
それにしても、本当に気付かないものなのね。
私としては、アリッサが親しくしているのなら『黒衣の貞女』の正体を明かしても気にしないのだけれど、彼女にはそんな気はないようであった。
アリッサとしてのびのびと出来るギルベルトの研究室と、黒衣の貞女として私の横に立つ時はあくまで別人であると、線引きしているということだ。
アリッサが言わないのならば、私もそれに付き合おう。
「彼ときたら着るものも人付き合いも無頓着でしょう? それはもう苦労してますよ。仕立屋も私と同じところを紹介したんですよ。彼の地位ほどになると出入りする店の品格も考えねばなりません。杖の長さも合ってないので新調させたんです。彼は王国の宝ですからね? 相応の身なりをするのは義務というものですよ」
とても貴族らしいザームエルは、無精者のギルの世話を焼くのにぴったりだ。
中身を重視するギルベルトと、外見を気に掛けるザームエルは凸凹コンビというか、いい相棒といえるだろう。
「招待状や面会の申し込みもそれはもう沢山届くのですよ。この男ときたら自分では一切そういうものに目を通そうともしないで積み上げておくばかりなんですから。エーベルハルト令嬢からも一言言ってやって下さい」
どこかで聞いたような苦労話だ。
私も自分では書状の仕分けをしないので、これにはバツが悪かった。
だって、誰にどう返事を出すなどの匙加減はさっぱりわからないのだもの。
「それは優秀なバウマー様を信頼していて任せているのですわ。ねえ? ギル様」
後ろめたいのか学者は全力で首を縦に振って肯定の意を示した。
きっと面倒事は全部押し付けているのに違いない。
「誰もがギルベルト・アインホルンの後援者という栄誉を欲しがりますからね。そこの見極めはとても大事なんです。金も口も両方出す輩は後援というものを理解していないんですよ。ギルの研究の邪魔にならないよう、黙って支援してくれる人が一番ありがたいですね」
「本当にザムがいなければ立ちいかないよ」
学者が助手に感謝を込めた視線を向ける。
元々のザームエルの虚栄心は廃れていないようで、ところどころに自分自身の称賛を挟みこんでいるが、あの冬越会の時ほどの嫌味は感じない。
高名な学者の助手という今の現状に満たされているのもあるだろうが、彼らは彼らなりに信頼関係を築いているように思えた。
ギルベルトはギルベルトで生来の不精な性格を思うと、冬越会からガラリと変わった周囲や環境に辟易したのは想像に難くない。
きっと遠くないうちに全てを放り出して、フィールドワークと称して出奔していただろう。
そんなところに貴族方面への嗅覚が鋭いザームエルが売り込みにきたのは、渡りに船であったのではないだろうか。