309話 願い事です
「とにかく3度も言う前に口の中でほどけてしまうからね。それはもう悪戦苦闘したよ。そういえば代償の話というのは、どんなものなの?」
「他愛のない世間話のひとつですわ。『猿の手』であるとか、そういう……」
あの事を聞くかどうか一瞬迷ったが、聞けるとしたら今しかないのではないだろうか。
なるだけ普通に聞こえる様に、続けて私は聞いた。
「……、『Yの手』のお話とか」
ガルシアが一瞬、目を見開いたような気がした。
商業国家の悪しき習いに近いそれの事を私が知っていたのに驚いたのか、それとも心当たりがあるのかどうか。
「……。なんとも、ぞっとしない話をするね」
「ご存知ですの?」
何かに迷ったように躊躇したようだったけれど、沈黙するよりはと判断したのか彼は話しだした。
「うちの国でまことしやかに流れる伝説みたいなものだよ。『Yの手』に願いをすると叶えてくれるってね」
あら?ロンメルの話では呪いに使うのではなかったかしら?
「願い事を叶える道具なのですか?」
「呪いの魔道具とも言われるけど、それを通して『Y』という神と繋がりをもって願いを叶えてもらうというかな? どちらにしろ、あまり面白い話ではないよ。悪事を奉じなければ叶わないというのだから」
ロンメルは惨たらしい犯罪とか言っていた気がするけれど、ガルシアは私に気を使ってか言葉を濁してくれたようだ。
「『Y』というのは、悪徳の神を指すのですか?」
「好奇心は猫を殺すという言葉は知っているかい? 君のような令嬢がそんな神の話をするなんて」
呆れたように、ガルシアは首を振った。
呆れられるのは当然であるが、商業国家の人間であるガルシアからなら何か新しい事が聞けないかと期待があるのだ。
面識のない商業国家の人より、私に親しみを感じている彼の方が話を引き出しやすいだろう。
それが禁忌とされている話ならば尚更だ。
「私の国にはさほど資料がありませんし、何か知っていれば聞かせていただきたいと思っているだけですわ」
商売人の彼の事である、私が本好きであることも勿論事前に知っているだろうし知識欲が旺盛なのも先ほどの会話からわかっているようだ。
ガルシアは拳を顎に当ててしばし思案した。
何か知っているというのは、その仕草からわかる。
知識を持っているからこそ、こうしてどこまで私に話をしようか頭を悩ましているのだろう。
返事を待っていると、彼は顔をあげた。
「私がそれについて、何かしらの話をしたら君は嬉しい?」
伺うような表情だ。
「勿論」
私は即答する。
ガルシアは諦めた様に、長い溜息をついた。
「『Y』が悪徳の神だというのは、その通りだね。うちの国では同一視されている。『Yの手』についてもそうだね」
少し間が開く。
言葉を選んでいるようだ。
「噂でしかないけど悪徳の神の事を知りたければ、『湖水公卿黙示書』という本に詳しく載っていると言われているよ」
「湖水公卿……」
私は彼の言葉を復唱する。
「なんでも大昔に書かれた湖水地方に住む貴人が残した隠された神やモノについての禁書らしい。それの12巻に書かれているそうだよ。私が言えるのはここまでだ。感謝してよ?」
悪徳の神の話を触れ回るのは良くないと思っているのか、言い終えてから若干の疲れをみせていた。
「くれぐれも……、くれぐれも『Y』の名前を知ろうとしないように。お願いだ」
憔悴したような顔で真剣にそう続けた。
「約束しますわ。とても感謝してます。ありがとう、トマティートさん」
ずるいかもしれないが、ここはわざとそう呼び名を付け加えて言ってみた。
その途端、嬉しそうな顔になる。
なんだかずるい大人が無邪気な子供を騙しているような気分だ。
実際ガワは反対なのだけれど。
「そういえば」
ガルシアが何かを思い出したように口にした。
「君と同じくらいの年齢の亜麻色の髪の令嬢は知ってる?」
その特徴で知っているのはコリンナくらいだ。
他にも同じ髪色の少女は何人もいるだろうけど、どうしたのだろう?
「この間下町で見掛けてね。まあ保護者と一緒みたいだから大丈夫だろうけど、今は物騒な事件も起きているというし、君のお友達なら気を付けた方がいいかなと思ったんだ」
コリンナが下町へ?
「保護者が付いていたというと、付き添いの女性でも?」
「いいや、とても体の大きい恰幅の良い紳士だったよ。顔が似てなかったから親子にも見えなくて目をひいたんだ。異国風の顔立ちで目鼻立ちのハッキリした男性だったね」
それはチェルノフ卿ではないだろうか?
何故、その二人が下町へ?
今まで考えるのを避けていたけれど、殺人事件の犯人はかなりの巨漢だという目撃情報もあるし……。
いや、チェルノフ卿はとても気持ちのいい人ではないか。
疑うなんて失礼だ。
でも、ドリスだっていい人だった。
私には、いい人だったのだ。
私を蜘蛛の娘にしようとしたのも、悪意からではなかったのだもの。
ぽんこつな私は、きっと人を見る目が無いのだ。
何を信じていいかわからなくなっている。
「後、ハンプトマン中将だけど2人きりになったりしないようにね」
突然の話過ぎて頭がついていかない。