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黒山羊様の導きで異世界で令嬢になりました  作者: sisi
第五章 シャルロッテ嬢と噛みつき男
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305話 食後です

 すっかり気分もよくなって夕食を終えると、とっぷりと日も暮れていた。

 行き交う人も少なくなり、大通りを越して裏通りを歩く。

「そういえば、お仕事は大丈夫なの?」

「ああ、元々夜勤と交代で上がるところだったんだ」

「それなら良かった。あ、この辺で大丈夫。すぐそこなの」

 娘は、粗末な下働き小屋を見られたくなかったので早めに衛兵を帰したかった。

 青年も何か感じ取ったのか、しつこくもせず納得してみせた。

「じゃあ、また休日になったら、あそこへおいでよ! 仕事中でも休みでも僕は大体あの周辺にいるから」

 娘は何度も頷いてお礼を言うと夜の街灯の中、青年が来た道を戻るのを見送った。

 下働きの身では次の休みがいつであると約束も出来ないので、彼の提案は嬉しいものだった。


 きっとあの川辺に訪れた好みの女性にああやって声をかけては誘うのだろう。

 もう子供ではないのだから、それくらいは分かっていた。

 女性の扱いに手馴れているし、引き際も好ましいものだ。

 仕事を頑張って商家の館住まいになれば、次は家の前まで送ってもらおう。

 そう思うと、明日からの仕事のやる気が溢れてきた。

 次があるかないかもわからないけれど、それに備えるのは悪くない。


 鼻歌を歌いながらスキップをしていると、路地裏から人が出てきた。

 娘は一瞬戸惑った。

 スキップをしていたのを見られた事もだが、何よりその相手に驚いたのだ。


「え?」


 そこにいたのは、櫛をくれた貴族だ。


 なんでこんな所に?

 まさか私に会いに?

 こんな事ってあるのかしら?


 夢みたいに楽しい休日の終わりに貴族の人が私を待っているなんて……。

 パリッと糊の効いたフロックコートに、杖とハット。

 完璧な紳士の出で立ちで、そこにいる。

「あ、あの。櫛をありがとうございました」

 お礼を告げると紳士はにっこりと笑って娘に右手を差し出した。

 作法がわからずに戸惑ったが、まるで「さあ」と声をかけられたかのように出された右手に自然と娘は左手を重ねる。

 まるで淑女をエスコートするかのような紳士の所作は、先程までの浮かれた気持ちとは全く違うものを娘にもたらした。


 言葉を一言も口にしない紳士に戸惑いつつも、自分を欲しているとわかった。

 お互い黙ったまま向き合って、手を重ねて見つめ合う。

 紳士の目はひどく熱を帯び、それが娘にも伝わる。

 1分1秒が長く感じる。

 先程までいた青年がいかに子供で健全であったことか。

 娘はこれから起こる事に、身を委ねようと思った。

 相手は貴族である。

 本気でも遊びでも、今よりいい思いが出来るのだ。

 娘は自分の中にある打算に少々の驚きを感じながら、紳士に微笑んだ。

 彼の左手が娘の右肩に触れて、そこが熱くなる。

 彼の右手に触れている娘の左手が熱くなった。



 じわり



 熱と痛み。

 そして、血が滲む。



 焼け付くような痛み。

 ハサミで捻りあげて、肉を切り取るような痛み。

 えぐる様にゆっくりと、時間をかけて肩と手の肉が少しずつ削られていく。



 娘がその痛みに耐えかねて叫び声をあげようとするが、それは小さい無数の手に阻まれて、くぐもった音にしかならなかった。

 赤子や子供に集られて身動きが取れない。

 何が起こっているかはわからないが、ひとつだけ確かな事。


 くちゃくちゃと音がする。

 男の手が触れている部分から、くちゃくちゃと生肉を食む音がする。

 耳に届く咀嚼音は、自分の肉が食されている音なのだ。


「お゛……、お゛いじぃぃ……い」


 ざらついた声が、合唱するかのようにそこかしこから聞こえてくる。

 子供達の口元やその掌から。


 娘は目を見開いて男の顔を見ると、そこには何も無かった。

 そこにいるのは、頭の無い大男。

 紳士の装いはどこにも存在しない、ぶよぶよと張りのない白いたるんだ肉体がその掌についている口で娘の左手と右肩を咀嚼している。

 何が起こっているか理解出来ないというかのように娘は頭を狂った様に振るが、そこには白い嬰児が何体も取り付いていて離れない。



 かつん



 髪が解けて勢い良く飛ばされた香木の櫛が、石畳に跳ねる音がした。



 私の櫛。

 私が、あの櫛の物語の主役になるのだ。

 冴えない村娘が都に出て、洗濯女から下働きに昇格する。

 貴族と知り合って贈り物をされて、休日には買い物や買い食いを楽しんで、好青年と知り合う物語。

 最初はぎこちないけれどだんだん打ち解けて、2人で夕食を楽しむの。

 その後は綺麗な月が照る街角で紳士が迎えに来て手を差し出す。

 なんて素敵なお話。




 娘の下半身には背の低い子供が何人かまとわりついてその掌と顔にある口で齧り付いている。

 ゆっくりとよく噛んで嚥下される。


「う゛まあ゛ぁぁい」


 口に合うのか嬉しそうな声である。


 それらには目がなかったが、それに恐怖するよりも自分が今、食べられている事実にまさる絶望はないだろう。

 狂気に身を委ねたくとも、痛みがそれを許してはくれなかった。

 歯を立てられ、みちみちと生肉が千切られて娘の体は少しずつ肉を減らしていく。



 娘の視線の先には櫛が転がっていた。

 通りの方へ飛んでいってしまって、もはや手が届く距離ではない。



 誰か櫛をとって、私の髪に差し直して。



 目の前で起きている自分が食べられている事はどうでもいいかのように、彼女は落ちている櫛を見つめていた。



 私の櫛。



 生きながら食される事から逃避するかのように、娘の頭の中は櫛のことでいっぱいだった。

 あの櫛を差して村へ帰ったら、皆が私を綺麗だと褒めるだろう。

 誰から貰ったのかって、質問攻めに合うだろう。

 お母さんは大人になったのねって、びっくりする?

 お父さんは、お前にはまだ早いんじゃないかとか変に照れて子供扱いしそうだ。

 とびきり綺麗に髪を結い上げて櫛を差したら、きっと私が村一番だ。


 そういえばあの赤い薔薇の石飾りのついた金の櫛は誰の手元に渡ったのかしら?

 どうかあの櫛の持ち主になる人は食べられたりしませんように。

 私の物語は食べられて終わってしまうけれど、そうではありませんように。



 櫛を見ながら血の気が失せて青白くなっていく娘の顔を、男が見下ろしていた。

 元の紳士の姿である。

 満足気に、死にゆく彼女を眺めている。

 血の海に浮かぶような白い傷ひとつない娘の顔。

 紳士はそれに何事か話しかけたような素振りをみせたが、それを聞く者はそこにはいない。




「この辺り、こんなに生臭かったかあ?肉屋が生ゴミでもぶちまけやがったな」

 呂律が回らぬ酔っ払いの男は、裏通りの一角で立小便をしながら通りに漂う酷い匂いに顔をしかめた。

「こう生臭いと、俺の小便がお貴族様の香水みたいに思えるわな」

 ヒヒヒッと下品に笑うと道に落ちている物に気付く。

「こりゃあ、たまげた」

 手にした櫛をじっくりと舐めるように見る。

「上等だなあ。何ヶ月分の酒代になるかね。ああ!溜まったツケを払うのが先か。酒場の姉ちゃんも買えるかもしんねえな」

 降って沸いた幸運を大事に胸ポケットに入れる。

「俺の櫛さ。櫛様さまだあ」

 ありがたそうに呟きながら、酔っ払いは足早にその場を去っていった。




 もう光の無い命を失った娘の瞳が、道の向こうでそれを映していた。



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