304話 衛兵です
「君、そろそろ起きて帰らないと……」
男の困ったような声に、娘は目を覚ました。
夢見が悪く疲れが溜まっていたのか、すっかり眠ってしまって気付けば辺りは暗くなっていた。
慌てて立ち上がろうとする私に、衛兵が笑いかける
「仕事で疲れていたのかな? 気持ちよさそうに寝ていたから、なかなか声を掛けづらかったよ」
「すみません! まさかこんなに寝ちゃうなんて……。最近寝つきが悪かったせいで……」
衛兵はそれを見て、落ち着つくように話しかけた。
「謝らなくてもいいんだよ。他にもそういう人は多いしね。ここは気持ちのいい場所だもの。そうやって寝入る人が多いのは、ここの治安を信頼されてる証拠だしね」
よく見れば若い衛兵だ。
青年に寝顔を見られていたなんて……と、娘は顔を赤くする。
「涼しくて、川のせせらぎを聞いてたら、つい」
「わかるよ! 僕も非番の日にはここで昼寝をするって決めているんだ。でも他ではしちゃだめだよ? ここは特別治安がいいってだけなんだから」
「ええ、ええわかってます」
勢いに押されそうになりながら、首を縦に振った。
他の場所で昼寝などしようものなら、身包み剥がされても文句は言えないのだ。
ましてや女性ひとりなんて、格好の獲物になってしまう。
青年はもう一人の衛兵になにやら断ると、娘に向き直った。
「家はどの辺かな? 近くまで送っていくよ」
思わぬ申し出に、娘は恐縮する。
王都勤めというものの、村から出て来て職場は下町の商家だ。
話しかけてくる異性は同じく下働きの男性か、昼間から飲んだくれて道端に転がる輩くらいで衛兵の制服をピシッと着込んでこんなに礼儀正しい人とは初めて接するのだ。
「そんな、いいです。自分で帰れますから」
「え~。相棒には送っていくって言っちゃったし、遠慮しないでいいよ。ほら酒場の前とか危ないしね。それに暗くなってから可愛い女の子をひとり歩かせるのは心配だよ」
娘は赤かった顔を、さらに赤くした。
相棒と呼ばれた衛兵は、やれやれと言ったような表情だ。
きっとこの青年は、女性には特に親切なのだろう。
「こいつは言い出したら聞かないんだから、送らせてやってよ。俺の顔を見るより、女の子の顔を見ていたいんだよな」
そう笑って送り出されてしまっては、断ることも出来なかった。
あそこの店がとか、ここの屋台がとか青年の話は娘を十分に楽しませてくれた。
話し上手で最初は相槌を打っていただけの娘だったが、気持ちがほぐれるにつれ笑い合いながら会話が弾む。
青年も外の村からやってきたらしく、そのあたりも気安く話せる要因であった。
村出身といっても衛兵の職についているのだから、村の名士か聖教師の子供なり身元保証人がしっかりとついているちゃんとした家の出なのだろう。
農民とは違うのがわかる。
だが村の中では明確に線引きされる身分かもしれないが、王都の貴族と庶民の身分差から見ればそれは微々たるものであった。
「髪に香油を塗っているのかな? いい匂いがする。おしゃれだね」
ふいに、髪の匂いをかがれる。
娘はとっさに、距離をとった。
髪を洗ったのはいつだっけ。
村なら夏の間なら頻繁に川に入って沐浴や洗髪をしていたけれど、王都に来てからはそこまでこまめに入浴していないのだ。
服や髪の匂いを気にしながら、顔が赤くなる。
「ははは、ごめんごめん! 失礼だったね。そんなに警戒しないでよ」
衛兵はどうやら近付いたのが原因と思ったのか、また元の距離に戻ってくれた。
娘は胸をなでおろす。
こんな風に男の人と通りを歩くなんて、まるでデートのようだ。
さっきはあんな風に顔を近づけられるし、恥ずかしかったけれど悪い気はしなかった。
何より香木の香りのおかげでおしゃれだと言ってもらえるなんて、娘にはその櫛は幸運をもたらすもののように思えた。
「じゃあ、お詫びに食事をおごるよ?」
悪びれず、あそこが安くてうまいんだと強引に連れて行かれる。
こんな休日になるなんて思ってもみなかった。
愉しく街歩きをして昼寝をしたら衛兵とデートだなんて、誰が想像出来ただろう。
食事を断って帰ってもあるのはどうせいつもの豆のスープだと思うと、強く断る気にもなれなかった。
「すごく街に詳しいのね」
「そうかな? 先輩達からいろんなことを教えてもらったんだよ。衛兵の仕事につけたお陰で、街の人達ともよく話をするんだ。みんなを護る仕事に就けるなんて本当に光栄だよ」
誇らしげな顔がまぶしい。
自分は村から出て少しでもいい暮らしをすることしか頭になかったが、こういう人もいるのだと娘は感心した。
連れて行かれた料理屋はお酒も出すところで賑やかで騒がしかったが、その喧騒の中にいるとなんだか王都の一員になれたような気がして悪いものでもなかった。
手羽先と野菜の煮込みに雑穀パンがついて、薄いワインも奢ってもらえた。
娘からしたら充分すぎる贅沢だ。
まるで、夢みたいだとその喧騒に酔う。
ひとりで過ごす予定が、こんな風になるなんて。
そう思うとあの悪夢にも感謝だ。
寝不足でなければ寝入る事もなかっただろうし、そうなれば衛兵と出会い話すこともなかったのだから。