303話 香木です
娘はベッドに腰かけて、眉間を押さえながらため息をついた。
最近、悪夢ばかりを見る。
レンガの建物の中を、化け物に追われる夢。
そのせいか、何だか疲れがとれないのだ。
枕に櫛を入れた小箱を隠しているので、寝心地が悪くなってその影響かもしれない。
他に隠しておける場所もないけれど、ベッドの下に押し込めてある鞄に入れる方がいいだろうか。
娘は憂鬱を振り払うように、首を何度か横に振った。
せっかくの休みの日なんだから、楽しい事を考えよう。
裏通りまで出たら物陰で櫛を髪に飾って、そのまま下町へ出るのだ。
並ぶ店を冷やかせば、きっと元気がでるはずだ。
賄いの豆の煮物には飽き飽きしているから、お昼は屋台の腸詰めかパンを皿にした炙り肉でもいい。
たまの休みくらいは、少し贅沢しなきゃ。
そう自分に言い聞かせるが、連日の夢見の悪さは体も心も重くしていた。
いっそ、一日寝て過ごしてしまおうか……。
そう思うが、外の陽気を思うともったいない。
貴族街に近い川辺なら衛兵の巡回も、人の出もあるし比較的安全だ。
あそこなら木陰で昼寝をしてもいいだろう。
そう予定を立てると、枕の縁を開けて隠しておいた櫛を取り出す。
裏びれた陽も差さないこんな部屋には似合わない、艶のある櫛。
まるでここだけ木漏れ日があたっているように、磨かれた表面が美しく光っている。
鼻腔をくすぐる香りが、さらに特別感を出している。
娘はおもむろに小箱に鼻をつけて匂いを嗅いでみる。
そして少し首をひねると次は櫛の匂いを嗅いだ。
最初に手にした時は、箱に香水を吹きかけてあると思っていたがそうではなかった。
これは香木で出来た櫛なのだ。
木で出来た櫛が薫るなんて、彼女には考えた事も無いことだった。
誰かにこの感動を伝えたいと思ったが、きっと伝えたら最後この櫛は自分の手元から持ち去られてしまうだろう。
飢えた動物の前に肉を見せたら食べられてしまうように、あっという間に餌食になるのだ。
だからみんな大事なものは首から下げたり下着に縫い付けたり、人には見つからない場所に隠すのだ。
枕の中だって安全ではないが、きっととうの昔に同僚たちには漁られた後だろう。
今まで何も入れてなかったのだし、1度漁って何も出なかった場所なら安全だ。
要は見せびらかさなければいいだけなのだ。
慎ましく過ごしていれば、誰も自分の持ち物など気にしない。
浅ましい人たちによって、すでに何を持っているかは把握されているだろうから。
自慢をしたら、しただけやっかみと揉め事が起こることをよく知っていた。
これが香木の櫛であることを知った事で、足取りが軽くなった。
まるで、その香りが陰鬱な気分を吹き飛ばしてくれたかのように。
出掛ける服を整えると、鞄に櫛を入れてそそくさと部屋を出る。
下働き小屋から充分離れてから、物陰に隠れて髪に櫛を差した。
それだけでなんだか自分がいつもよりも上品になったような、そんな気がする。
注目されるのは物騒であるが、誰かこの櫛を、私を、うっとりと見てくれないかしら?
そんな事を考えながら街歩きをする。
八百屋のおかみさんも花売りの少女も、これより素敵な櫛は持っていないだろう。
端切れの屋台やリボンだけがいくつも並ぶ店先、仕立屋の綺麗に磨かれた窓をガラス越しに覗けば最新の流行のドレスや服の見本が飾られて華やかだ。
下働き仲間とぺちゃくちゃおしゃべりしながらの街歩きもいいが、ひとりで好きな物をゆっくり眺めるのも悪くない。
なにより友人と出掛けるのに、この櫛を飾る訳にはいかないのだ。
店内の鏡や姿が映り込むガラスを見つけると、つい頭をかしげて櫛を確認してしまう。
そんな風に鏡面に自分を映していると、端に白いモノが一緒に映り込んでいるような気がした。
振り返っても何もいない。
鏡の向こう側にだけ見える白いモノ。
気のせいだろうか?
それは目の無い赤子のように見えて、背筋がゾッとする。
きっと寝不足のせいだと言い聞かせて、自分の姿を映すのをやめた。
すれ違う人達の中にも、私の櫛よりいいものはもっていないだろう。
少々、薄気味悪さはあったが、それは直ぐに霧散した。
心の中が満たされたような気持ちで街をそぞろ歩き、屋台で軽食をつまんでから予定していた貴族街に近い川辺についた。
ここまでくると、ちらほらと貴族に仕えているだろう上等な服を身に纏う人達も出歩いている。
それと王都学院の学生だろう子供達が、茶色や地味な色の服を着てきょろきょろしながら歩いていたり、男女で散歩をしていたりするのも見受けられた。
彼らはあれで、下町の人間に紛れている気分になっているのだ。
いくら地味な格好をしていても、それはいい生地だとわかるし、振る舞いや言葉遣いで身分がばればれなのである。
それを当人達は気付く事も無く下町に溶け込んでいると思っているのだから、住民からすれば少々滑稽であるというものだ。
きっとあの人達は、凍える夜もひもじい昼も過ごした事がないのだ。
いつもその手は美しく、何不自由しない生活。
そんな風に過ごしているのに、何故わざわざ下町の住民に扮してこんなところを歩くのかは、到底理解出来なかった。
下町の人間が立ち入ることは出来ない貴族街には、もっと美しくて素晴らしい公園もお店も揃っているだろうに。
そんな疑問を思いつつ歩いていると、そこかしこに休憩や昼寝に来た人たちが芝生や木陰で休んでいる場所に出た。
こんなに周りを警戒しないでいい場所は他にはなかなかない。
お忍びで遊びに来る王都学院の生徒のお陰でこの辺はとても治安が良い。
そう思うとお坊ちゃんやお嬢ちゃんに感謝しなければと娘は思った。