301話 浴槽です
確かハンス爺が言うには神聖教国には温泉宿とかあるという話だったし、他に比べてこの王国はまだ入浴文化が未成熟ということかしら?
水資源が足りない訳ではないが潤沢というほどではないので、そこも関係しているのだろうけど。
それだからこそ気軽に出来る足湯の湯沸かし談話室が流行ったのだ。
日本のように肩までお湯に漬かる入浴を定着させるには、もう一押しが必要だ。
そう思うと、やはり温泉を掘り当てたいものである。
「木製ならともかく、陶器や琺瑯の浴槽自体が贅沢品だからねえ」
「琺瑯で浴槽って作れるの?! 兄さんに教えてあげなくちゃ」
学者の言葉に、アリッサが飛び跳ねる。
「ああ、君のお兄さんは琺瑯職人だったね。お兄さんはもう知ってると思うよ。ただ、浴槽みたいな大物は注文を受けてからじゃないと、作らないだけじゃないかな?売れ残っても邪魔だし、相当値段も張るからね」
「ギル先生、バカね! 浴槽を作ってシャルロッテ様にプレゼントすればいいのよ。そうしたらうちの琺瑯は聖女様が湯あみに使ってますって周りに言えるじゃない? 真似する貴族はきっと出てくるわ」
「あら、アリッサは中々商売人なのね」
私に褒められてか、少し得意げにふふんとアリッサは笑った。
変質してしまってからあまり家業に興味がないのかと思っていたので、彼女の提案は意外なものである。
兄の商売を気にかけているのは、なんだか安心する。
彼女の全部が神様によって変わってしまったのではないという事が、何故だか私には嬉しかった。
足湯をしてみてわかったのだけれど、琺瑯は保温性が高いのだ。
お陰で差し湯で温度を調整するのに、そこほど時間をとられなくて済むのはいい誤算だった。
それを思うと確かに浴槽を琺瑯で作るのは、お湯の節約にも繋がるし良さそうだ。
もしアリッサの言うことを真に受けてトニから浴槽が送られて来る事があれば、ちゃんと料金は払うように手配しないと。
「とりあえず参考になったよ。ああ、ザムの事はまた連絡するね」
結局、お風呂の話になってしまった気がするが、ギルギルはとったメモを大事に抱えると、ひと仕事やり終えたような清々しい顔で出ていった。
「一体、何だったのかしらね?」
アリッサに声をかけるが、目を細めて内緒とばかりに口に指を当てているのをみると事情を知ってはいそうだ。
もしギルの結婚が決まっているなら、お祝いを用意しなければ。
でもあの様子だと、求婚はまだの可能性もある。
ちょっと変わり者なのだし、先に家を建てたり結婚までの順番を間違えていてもおかしくない。
いやそもそも、まずお相手とは付き合っているのだろうか?
学者としては優秀だけれど、生活能力というか人としてのあれこれが少し心配である
ヨゼフィーネ夫人を差し置いてこんな事を言うのはなんだが、何やら大きな息子のような存在だ。
私のやらかしを取り消せはしないが、挽回は出来る。
後暗くてザームエルと面会しようと思ったが、どうやらギルベルトの日々を支えてくれているのも彼らしいので、そこはきちんと感謝しなければ。
いっそザームエルが女性だったら、結婚相手の候補になっただろうに。
あら?もしかしてさっきの話はザムと暮らす為?
いやいや、怪しいけど一応知り合いの話と言っていたし、その可能性も無きにしも非ずだ。
何だか色んな話をいっぺんにしたようで、頭が混乱してしまった。
そもそも今、大事なのは「Yの手」である。
民話として残るものがあるというのは、昔から存在していたということだ。
しかも各地に?
これでは悪徳の神の手広さを確認しただけではないか。
ギルが言ったように人の仕業ならば良いのだ。
それなら、そもそも私が首を突っ込む事でもないのだし。
でも、もし何か神話に関わるモノの仕業だとしたら人の手に余るのは目に見えている。
それこそアリッサの力や、邪悪を破るラーラの剣が必要ではないか。
それを手元に置いているのは他ならぬ私なのだ。
だからこそ、疑いながらも連続殺人の犯人が悪徳の神ではないという確たる証拠が欲しいのだ。
人が起こす犯罪と、人ならざるものが引き起こす事象。
その2つを区別するのは、とても難しいような気がした。
もしかしたら私が知らないだけで、今までも人の犯罪の中に摩訶不思議なものが埋もれているのかもしれない。
そこまで考えてから、もしかしたら前の世でも同じ事がいえるのではと思い当たる。
悪意や凶悪な犯行が横行する片隅に、悪徳の神が潜んでいてもおかしくはない。
そう思うとあの物質主義な世界が、どこか心許ないような不安定なものに感じた。
「ギル先生の跡を追いますね」
アリッサはそう言うと、窓枠を掴んでギルの護衛としての仕事をしにするりと音も立てずに出て行った。
王都の中で今、悪徳の神について信者を除けば1番造詣が深いのはギルベルトなのだ。
子供騙しの話ならば良いが、神の存在が明らかならばそれに付随する言い伝えは無視出来ない。
まとまらない思考に翻弄されながら、クロちゃんを抱きしめる。
テーブルの上には、書状が重ねておいてある。
私宛の招待状だ。
社交シーズンは各所から大量のお茶会のお誘いがかかるのだが、母とソフィア達により必ず行かねばならないものと、断ってもいいもの、行く必要が無いものとわけられてから手元に来るので、私自身の手元に来るまでに仕分けされ、振るいにかけられるので思ったほどは多くない。
その中に見慣れない封蝋を見つけた。