298話 資料です
「やあやあ、お邪魔するよ」
扉がノックされソフィアが開け切る前に入ろうとしたのか、学者はゴツンと扉にぶつかった音をさせていた。
きっと自分の発見か、新しく得た知識を披露したくて仕方がないのだろう。
もう少し落ち着いてもいいと思うのだけど、いつまでもこの人は子供っぽい。
「この間の話の続きだけどね、『Yの手』なるもの話は実に興味深いねえ」
そういって、目をキラキラとさせている。
「王国見聞隊の資料を見ていたら、他国の未解決の事件の時の現場で似たようなものが目撃されていたり、『灰色の手』が出てくる民話になっていたりと時代や地域を越えて散見されるね」
そうして古びた書き付けや、写本をテーブルに並べだした。
「これは君の家の領地に隣接する山岳連邦での話だね。ほら、ここ『妖の仕業か、無数の人の口に噛まれし屍』と読めるよね。こちらには『緑がかった灰色の逞しい手の像は天を掴むかのようにその掌を広げ、そこには裂傷があり歯が並んだ口元のようにも見えた』。どうだよ、まさに!! という話じゃないか」
その他にも事件現場にあったと思われる手の像がいつの間にか消えていたやら、拳を握っていた像がいつの間にか開いていて被害者の、持ち物が側に落ちていたとか何件か見せてくれる。
国や地方を跨いでいるせいで、それらは関連付けられることはなかったのだ。
「私はてっきり商業国家の土地のなにかと思っていたのですが、これは……」
「これだけ分布しているとなると、人手に渡って旅でもしているか、複数存在するということじゃないかな? まあ、いかにも商業国家で好まれそうなものだからねえ。実際にあの国にあるのが確認されての話なのか、単なる噂かの真偽は分からないけど」
「この間からそんなに日が経っていないと思うのですが、よく調べましたね」
いずれも未解決事件や他愛のない噂話の書き付けである。
資料を漁るにも苦労しただろうに。
「それはザム坊ちゃんが頑張ってくれたんですよ。シャルロッテ様もいい加減声を掛けて上げたらどうです?」
いきなり声がしたので振り替えると、アリッサが窓枠に足を引っ掛けて伸びをするように逆さになってそこにいた。
それを見てソフィアがすっ飛んできて、アリッサを部屋に引き込む。
「アリッサ! そんな事をしちゃだめよ!」
「だって誰も見てないし、楽なんだもん」
くどくどとこまめにアリッサに説教するソフィアは、彼女が見習いの頃の昔のマーサによく似ていて、こうやって引き継がれていくのだなあと思わせた。
「ザム坊ちゃんってどなたかしら?」
思い当たる人物がいないので学者に確認する。
私達の共通の知り合いというと、王国見聞隊の人かウェルナー男爵領の誰かくらいだと思うのだけど。
それともアインホルンの縁者の人?
「誰ってザームエル・バウマーの事ですよ」
「ザームエル・バウマー?」
聞き覚えもまったくない。
あるとするとバウマーという苗字の男爵が王都の北側に領地を持っていることくらいか?
「お嬢さんが僕に付けてくれた助手ですよ! ほらあの冬越会の時に」
さっぱり心当たりがない。
「何を言ってるかまったくわからないのだけど、私そんな手配をした覚えはありませんわ」
私の言葉に、アリッサが呆れた声を出した。
「やっぱりザム坊ちゃんの嘘だったんだ!」
「いやアリッサ。ちゃんと紹介状は出ていたし、嘘と決めつけてはいけないよ」
そんなやり取りが、わけのわからないままされている。
ソフィアはプルプルと笑いを抑えながら私に話しかけた。
私の交流を記録している侍女である彼女はわかっているみたいだ。
「ザームエル・バウマー様というと、冬越会の時にシャルロッテ様が『お優しい方』と表現された方ですね」
何故、そんな遠回しな言い方をするのだろう?
私が「お優しい人」と言った相手?
あの会の始まりは、あまりいいものではなかった。
ギルの手柄を貶める様に何人かの同僚と思われる人達が貴族を相手に悪口を吹き込んでいたし、そんなやり口が気に入らなくてこれ見よがしに嫌味を言ってみせたものだ。
「あなたのようなお優しい方がついてご助言下さるなら、きっと今後はアインホルン様も正当に評価を受ける事が出来そうですね」
脳裏に蘇る私の台詞。
確かに私はそう言ったのだ。
「お優しい方」と。
「まさか……」
私の青ざめる顔を見て、ソフィアがコクコクと頷いた。
小賢しい若い学者をやり込めてやったザマアミロと私が勝利宣言をしたあの人の事?
「たっ……、確かにギル様の面倒というか、身の回りに気をつけてあげてというような事は言った気がしますが……」
気がしますでは無く確かに「言った」のだが、あんな喧嘩腰というか売り言葉に買い言葉で、若人の未来を左右してしまった事実から目を背けたかった。
侯爵令嬢に公の場であんな事を言われて、可哀想な若者はギルベルトの庇護に入る他に選びようがなかったのだ。
コネも無く、パトロンから金を引き出す事に熱心な学者が、侯爵家に逆らえるはずがないのだ。
そう思うと爵位をあまり理解していないのだろうが、何度も私を貶めようとするアニカ・シュヴァルツは不屈の精神を持っているとは言えないか?
妙なところで彼女の根性に感心してしまった。