295話 櫛です
娘はベッドの上で思い返していた。
階段を駆け上がってきたので息が切れている。
粗末な小屋の相部屋のベッドの上に、白いハンカチと小さな包みがひとつ。
娘はそれを並べて、満足気であった。
こんな事ってあるだろうか。
先月、いつもの小物屋で買い物をしていた時に、入店してきた身なりの良いあの人。
見るからに店の中で浮いていた。
振る舞いからも、きっと貴族に違いない。
買い物と言っても自分の給金ではリボンや小物くらいしか手が出ないから、冷やかしに近かったのだけれども、店の方もそんな客には慣れているので嫌な顔はしないし、賑やかしだと受け入れてくれている。
上等な身なりもだけれど、男性も1人でこんなお店に来るのかと思いながら横目で見ていた。
ふと目が合って、慌てて目をそらしたものの相手は違った。
にこやかに私に笑いかけながら、女性の好むものがわからないから助言が欲しいと請われたのだ。
まさか声を掛けられるなんてと驚いた。
その相手の女性の好みを聞くと、「よく分からないから、君が貰って嬉しいものを選んで」と言う。
貴族の人なら何か贈り物にもルールがあったりするのかと思ったけれど、そういう事は気にしないでいいと言われた。
私なんか庶民が身なりの立派な人の代理で贈り物を選んでもいいものかと、随分悩んだのを覚えている。
でもあの人は優しげにいうものだから、つい、美しい薔薇色の石で飾られた髪を飾る櫛を選んでしまった。
夢見るように綺麗な金細工の櫛に咲く薔薇色の石。
庶民がついぞお目にかかることがないような、美しい装飾具。
今まで誰の手にも渡らなかった孤高の櫛。
いつも高みから私達を見下ろすかのように、厳重なガラスのケースの中に飾ってあった。
うかつに触れようものなら魔道具であるケースが、警笛を鳴らすか何かで相手を威嚇するのだろう。
それはまるで女王様と護衛騎士のようだ。
値段からも、この雑貨屋では抜きん出ていい品であることが分かった。
貴族の娘の髪を飾るのに相応しそうなそれは、私がこの店を知った時からずっと売れずに残っていた。
大半の貴族はこんな下町の小物屋へ足を運ぶ事は無いし、下町暮らしの人間には到底手が出せない品物だ。
店主もそれはわかっていたのだろうが、思い入れがあるこだわりの品なのか、単に客寄せのひとつとして陳列したのかわからないが、それはそこに君臨していた。
顔見知りの客の間では、店主が貴族の令嬢に恋をして贈り物としたけれど、思いかなわず返品されたロマンスの証なのではないかという眉唾物の恋物語が語られるくらいだ。
あの口髭を蓄えた熊のような店主に、そんな物語があるとしたら微笑ましいではないか。
表立って確認する人がいないので、まことしやかにそれは囁かれ続けて今に至る。
真偽はともかく客寄せという意味では、確かに効果を発揮していた事だろう。
自分のようにこの櫛を眺めるのを目当てに、店に通う人間は少なくないはずだ。
それくらい魅力的な櫛なのである。
毎回ではないが、私もたまには身の回り品をこの店で買う事もあった。
その櫛は女性客にこの店を選ばせるために、象徴的に存在していたと言って良い。
そうして、町娘達の羨望の眼差しを欲しいままにして、誰の髪も飾らぬまま月日だけが去っていた。
そう、機会が訪れたのだ。
自分の物にならないのがわかっている憧れの品。
それの行く先を、今なら私が決める事が出来るのだ。
売れてしまえば、もう2度とそれを目にする事が出来なくなる。
それは寂しい事だが、この店に通う知らない誰かに気付かないうちに買われるよりも、私がその行き先を決める方がよっぽどいい。
自分はきっと欲深いのだ。
好いた男が他の女性に取られるのならば、この手で殺す方がいいと考える身勝手さに似ている。
私はそんな事を考えながら、緊張で上手く喋れないまでもその櫛の美しさを言葉にして「あれがおすすめです」と指を差した。
紳士はガラスのケースを覗くと私に礼を言い、その後店員と何やら話し込んでいた。
奥から店主が出てきて何度もお辞儀をしているのを見るに、購入が決まったのは間違いない。
長年の憧れと決別する寂しさと、さっぱりとした清々しさを抱えて店を後にした。
あの美しさは自分の無味な日々を彩ってくれた。
あの櫛が何のために、どんな女性に贈られるかはわからないが、あの櫛の物語の脇役に私はなれたのだ。
それはちょっとした優越感を私にもたらした。
その櫛は下町の小物屋で眠っていた。
訪れた男は、偶然居合わせた1人の娘に薦められて美しい櫛に出会う。
そんな風に始まる物語。
馬鹿みたいな話だけれど、私はあの櫛が優雅な物語を作る時そのエピソードの1人になるのだ。
ただの娘の自分にはそれが素晴らしい事のように思えた。