290話 欠けたものです
「ねえ、もし君ならどうだい?」
青年は心細そうな声で、そう質問を重ねた。
孤立した少女は狂おしい程に、我が子に気持ちを向けたことだろう。
「想像でしか語れませんがお母様はあなたが生まれた事を、それはもう喜んだのではないかしら? お幸せだったと思いますわ」
「赤毛の僕の事を『小さいトマト』さんって呼んでたんだ。周りの奴らはそれを笑って馬鹿にしたけど、彼女にはもうそんな声も聞こえていなかったんだと思う」
ああ、だから私はこの話を聞かされているのか。
彼女と同じに彼をトマトの様だと言ったから……。
そして、彼の語り口から、彼女の心が壊れていたのも伝わってきた。
唯一の自分の味方である息子だけを心に入れて、周囲を遮断したのだ。
それは自衛本能であったかもしれないし、そうでなかったかもしれない。
だが、彼女がそこで暮らすにはそうするしかなかったのだろう。
「バカみたいな話なんだけどね。少女とはいえなくなった大人として成長した愛人達は、次々お払い箱になっていったんだよ。そんな女達はどうしたと思う?」
そう質問しながらも、答えを私に求めてはいなかった。
「妻の座につけば、捨てられないと思ったんだろうね」
彼が5歳の頃、それは起こったという。
跡取りとして教育を受け、いつも通り家庭教師が帰った後、勉強の出来栄えを褒めて貰いたくて母親の部屋へ走って向かった。
勇んで駆け込んだ子供の目に飛び込んで来たのは、凄惨な殺人現場。
「本当バカだよねえ。何故、身元もわからないような買われてきた愛人が、爵位まで金で買う商人の妻になれると思ったんだろう? 貴族であるからこそ買われた母を殺して、何故後釜に座れると勘違いしたのだろう。それ程、頭が悪かったんだろうね。気の毒な母は何度も刺された挙句、床に倒れていてもう僕を見てくれなかったんだ」
愛人の少女達は、そんな簡単な事も判断がつかない子供だったのだ。
もしかしたら、情事の後の睦言を真に受けたのかもしれない。
ごねる少女に愛してるのは君だけだと言えば、高い贈り物をするよりも機嫌が良くなるならばそうするだろう。
外見が成熟したといえ、中身は学ばなければ成長しない。
子供から勉学を取り上げる事の何と罪深いことか。
そうしてルフィノ・ガルシアの母は、愚かな愛人達に刺殺されたらしい。
らしいというのは、犯行を見た人間も犯人も捕まらなかったからだ。
愛人達は殺してしまってから事の重大さに気付いてか、逃げてしまったのか消え失せていたのだという。
その部屋には母親の死体と息子だけが残されて、日が暮れて使用人が探しに来るまで彼は動けなかったそうだ。
そんな現場を経験して、幼い彼はさぞ恐ろしく悲しい思いをした事だろう。
「母の心の中を知りたいと、ずっと答えを探してるんだ。実は彼女が死ぬ前に喧嘩……、いや、違うな。八つ当たりかなあれは。『あなたが、いなければ』と、叫ばれた事があってね。彼女は産んだことを後悔していたのかな」
心を病んで、息子と2人の世界に閉じこもる少女。
愛も憎しみも全て子供に向けるしかなかったのではないだろうか?
商人の妻として買われていなければ、他の令嬢の様に教育を受けられていれば、成人してから子供を産んでいたら。
そういうタラレバを何度も繰り返したのではないだろうか。
あなたが、いなければ。
その言葉も、そんなものの内のひとつだったのでは?
それは子供にかける言葉ではないが、彼女も未熟な子供だったのだ。
そんな彼女の心のうちを、男であるガルシアには理解出来ないのは当然といえよう。
かと言って誰が彼女の心を、気持ちを理解出来ると言うのだろう。
ハイデマリーでもコリンナでも、ましてや普通の大人の女性でもわかりようがないのではないか。
少女であり母であるなんて、まるで私を指している様だ。
だが、条件にはまるからといって理解出来るものでは無い。
私は金で身柄をどうこうされた事も、ましてや知らない男の妻になった事もない。
金で売られた事が辛かったのか、夫に愛人がいて辛かったのかもわからない。
世間を知らない彼女には、何が普通で何が異常かの区別もつかなかっただろう。
結婚に憧れて裏切られたかもしれないが、もしかしたらそれ故芽生えた夫への愛もあったかもしれないが、それは誰にもわからない。
すべてはガルシア夫人の心の中だ。
「きっと、貴方という子供を愛したのだけは確かですわ。母親というものは子供が思うようにならないと酷く絶望したりする生き物ですもの。つい、口が滑って心にも無い言葉を吐いてしまったのではないかしら? 母親といっても人間なのだから、完璧を求めるのは間違っていると思うの。きっと言ってしまってから後悔されたに違いないわ。そこは赦して差し上げて」
詭弁かもしれないが、他に言いようがなかった。
そう、母親といえど人間であり子供への向き合い方もその人それぞれだ。
子供を尊重する人、溺愛する人、物のように扱う人、子供から搾取する人といろいろいるのだ。
子供を愛するが故、押し付けられる慈愛溢れる母親像に押し潰される人だっている。
だが、彼が聞きたいのはそういう事では無いのだ。
長い沈黙の末ガルシアが呟いた。
「そう思う?」
頷く事しか出来ないが、彼女の置かれた立場や心境を考えるとそれがしっくりくる。
そうでなければ、ハナから自分ひとりの世界に篭っているはずだ。
夫を愛したかは誰にもわからない。
ただ身を割いて産んだ我が子は、彼女の唯一の光だったのではないだろうか。
だからこそ、自分の世界に彼だけを迎えたのだ。




