289話 幼い妻です
動物に慣れていないのかその餌やりは腰が引けていた。
「クロちゃんは噛んだりしませんよ?」
「それはわかっているけどね……」
大の男がこんな小さな仔山羊の何が怖いと言うのだろう。
この間飛び掛かられたのが、そんなに嫌だったのかしら。
それとも、余程動物と触れ合ったことがないのかもしれない。
動物に慣れてないなら、ぎこちないのも当たり前か。
そんな人がせっかく餌やりをしようと言い出してくれたのだもの。
ここは協力しなければ。
ふふふ、クロちゃんの可愛らしさにファンになってしまうかもしれないわね。
私はクロちゃんの横に屈んで、動かないようにそっと体を抑えた。
「ほら、これで大丈夫でしょう?」
ようやくおずおずと薬草束を差し出し、クロちゃんはそれをゆっくりと食んだ。
「本当だ。大人しいんだね」
感心したようにクロちゃんを見ている。
「他所様の山羊は知りませんけど、この子が賢く大人しいのは確かですわ」
「君も賢そうだ」
「仔山羊と同じくらいと思っていると、痛い目にあいますよ?」
笑いながらそんなやり取りをしているとトマト男はぽつりとった。
「子供はそんな口を聞かないものだけどね。ねえ、もしその歳で結婚をして子供を産むことになったら、君ならどうする?」
この人は女の扱いに長けているようなのに、私に対しては無遠慮過ぎではないだろうか?
この間ハイデマリーに贈ると言っていた宝石はどちらも恋愛の御守りとして令嬢や町娘の間で流行っているものだとソフィアが感心していたのを思い出す。
年頃の女性の扱いは上手くても、子供と話すのは得意じゃないとかなのだろうか?
いや、それにしてもこの話題は酷くない?
ガルシアはドン引きする私に気付くことなく、深刻そうに地面に目を落としている。
「失礼な事を聞いているのはわかっているよ。だけれどこんな事、子供に聞けないし……。君は何故か大人びているし、他に聞けそうな子がいないんだ」
彼は彼なりに思うところがあって聞いているのか、どこか必死さが感じられる。
「私の母は若くして父に嫁ぎ、私を産んだんだけど」
そういえば、若くして亡くなったという話だった。
あれはハイデマリーの気を引く為の話ではなかったのか。
「君のような少女を妻にするのも、理解出来ないし、それを嫌がらなかった母もわからない」
嫌がらなかった?
それは何だか不思議だが、箱入りの娘しかも子供なら嫌がる術を持たなかったかもしれない。
この男の外見を見る限りはすごい美丈夫なのだし、父親もそうだとしたら少女はそこに夢を見たのかもしれない。
顔のいいお金持ちの男が貧した少女を引き受けるなんて、物語にありがちだ。
商人として富を手に入れたルフィノ・ガルシアの父は、跡取りを持たない貧乏貴族の一人娘と縁組みする。
伯爵家は生活の保証を、ガルシアは貴族という名誉を少女を介して手に入れたのだ。
最低限の教育しか受けていなかった少女は、ガルシア夫人として幼いながら商業国家の社交界へ出ることになる。
せめて後5年待つなりすれば淑女として扱われたものを、夫はそれを許さなかった。
それとも貴族でない夫はそれを理解していなかったのかもしれない。
少女は世間と渡り合う知恵を持たないまま、大人の悪意に晒された。
賢さも機転も持ち合わさず、まるでトロフィーの様に物言わぬ人形のように微笑むだけの日々。
そしてまだ大人として心も体の準備も出来ていないのに、強いられた夫婦生活と訪れる妊娠。
御伽噺の様な愛を夢見て嫁いだのなら、それは残酷な結果として終わったのだ。
夫は既に何人かの少女を離れに囲っていたようだが、彼女はその少女達と比べても1番年若であったという。
体を売らねば生きていけない少女なら、金持ちを捕まえて安堵する事もあるかもしれない。
狭い木賃宿で身を売る周りと比べて、いい生活を手に入れた事で選ばれた自分を誇ったかもしれない。
だがガルシア夫人は貴族であるが故に、それを喜ぶ生い立ちではなく勝ち取った生活を手放しで称える事も出来なかった。
幸せとは主観だ。
同じ境遇でも、そこに何を見出すのは本人でしかないのだ。
知識も経験も無く、社交界では貴族の女性達に物知らずと指さされ、家では美貌や仕草や機転で夫の心を捉えた愛人の少女達に遠巻きに嫌味を言われる日々。
彼女の生まれが違っていれば、それも楽園ではあったのにそこは地獄でしかなかった。
日に日に少女の感情は擦り切れていく。
そして齎される懐妊。
子供が子供を産む。
そんな不条理から守ってくれる大人は誰もいない。
自分の親でさえ味方ではないのだ。
それは恐ろしい事だったろう。
ルフィノ・ガルシアから聞かされたのはそんな話であった。
そんな話を子供にするなと声を大にしていいたいが、この酷い話が彼の人生の1部なのだ。
両親の馴れ初め、愛人の少女達、そんな環境であったのは彼の責任ではない。
華やかな彼から想像出来ない境遇。
この話を聞くに相応しい人間がどんな人かも、私には想像できなかった。




