285話 身の内です
この悪徳の神に限っては自身の名を介して人と繋がり、その嗜虐心を満たすのだ。
神の意に沿い非道を捧げている限りは、黒山羊の目から罪を隠し願いを叶えてくれるという。
人の欲望の片隅で、自分の名前を呼ばれるのを舌なめずりして待っている。
そんな邪悪な神。
だからこそ、それを顕現させない為に人々はその名から目を背ける。
人の悪行を尊ぶ神の歌は、何か残忍な事件が起こると節や歌詞をその時々で変えながら、誰ともなしに歌われる。
それはまるで悪行の神の到来を、人々に警告をするかのように。
そんな不吉な童謡であった。
「『噛みつき男』に『悪徳の神』の歌……」
アリッサから大衆紙を受け取ったシャルロッテは、そこに書かれた「残虐」やら「非情」やらの人騒がせな文字と血の海に倒れる女性のイラストを見て溜め息をついた。
娯楽が少ないこの時代、こうして奇異な事件は娯楽にされがちだ。
シャルロッテにとっては日本にいた時も芸能人の醜聞が娯楽として消費されていたので、いつの時代もそんな物なのかもしれないと思っている。
「酷い事件なのね。人の仕業でもなんでも、悪徳の神様の事まで新聞に書かれるなんて……、きっと黒山羊様は悲しまれるのではないかしら」
そう呟く主人の顔から、アリッサは目を逸らせない。
その美しい紫の目は瞳孔が開き、人形の様に整った顔は感情が抜け落ちた様に無表情となって威圧を感じる。
それはまるで、あの蜘蛛の村に降りた神をその身に宿した時の様な、ある意味異形の美しさであった。
普段は優しく庶民的な感情豊かでちょっと変わったお嬢様なのに、ふとした時に見せるその姿にアリッサはぞくぞくするのだ。
「人で無し」の自分をも圧倒する、その身に宿した狂信。
本人には自覚がないのであろうがこの少女は善に、地母神に狂っているのではないかと思う時がある。
その過ぎた慈悲は身分差別を良しとせず、男女子供の区別無く人として権利があると公言しないまでもそう振る舞っているようにみえる。
特権を手にした貴族として生まれ育っているはずなのに、それを蔑ろにする様なおかしな考え方を根底に宿している。
もし貴族でなかったらどうするのかとアリッサは質問した事があるが、少女は事も無げに下働きか料理人としてどこかで雇ってもらおうかしらと答えたのだ。
働くという事を理解する事すら、必要がないはずの貴族の少女が。
そんな少女が国に虐待被害者を保護する機構を作ろうと働き掛けたり、それは淑女の善行を逸脱しているのでは無いか。
地母神黒山羊を盲信し、時折見せる少女らしからぬ表情。
平俗であり高尚で、幼女であるのに老成し、それは人の目には稀有な生き物に映った。
だからこそ聖女なのだと言われればそうなのだが、この小さな主人の内にある狂気はアリッサを惹き付けて止まなかった。
人であった部分が少女の善良な正気を、人でならざる部分が少女の持つ尋常でない狂気を愛さずにはいられなかったのだ。
アリッサは神から与えられた使命としてでは無く、心から仕える者としてシャルロッテを選んでいるのである。
「前に目撃されたっていうフードを被ったとかいう白い大男が首の無い神様にでも見えたんでしょうかね?」
黒山羊様の縄張りを他の神に荒らされるのが嫌なのだろうか、全ての国民は黒山羊様に祈りを捧げるべきだとでも考えているかもしれないとアリッサは思った。
「それもあるかもしれないわね。危ない事は避けて欲しいのだけれど、もしあなたの力を誰かが求めたら尽力してあげてね」
そう言うと、シャルロッテはそっとアリッサの両手を握る。
もうその顔はいつもの優しい少女のものであった。
シャルロッテが前世で生きにくかったのは当然の事であった。
盲いた白痴の王の世界。
眠る彼をよそに、神は死んだと人々は声高に叫ぶ。
彼女のいた場所は悪人よりも、悪事を指摘し場を乱す事の方が迷惑がられていた。
皆、声を潜めて嵐が過ぎるのを待てばいいと思っているのだ。
そんな中で正義を振り回せば、孤立することになってしまう。
空気を読め、場を乱すな、大人しくしておけ。
同調圧力により間違ったことを指摘出来ない世界。
そうして彼女は過ぎた正義感を、彼女の心を押し殺してきた。
あの世界は目立たず、息を殺して生きる事を彼女に強いたのだ。
ここは神の目が開いている黒山羊の世界。
人が営むが故、楽園ではないが神の目に止まれば裁きが下る事もある。
横行する悪事を断罪する刃のある世界。
そして今のシャルロッテには、悪い事は悪いと言える地位と財力があった。
図らずもシャルロッテ本人が無意識で欲していた、自分の正義を行使する力を黒山羊は与えていたのだ。
彼女は歪に正しく善良に狂っている。
それは産まれる前からの話で、至極当然の事と言えた。




