284話 名前です
噛みつき男がこっちにくるよ
その名を知ってはいけないよ
名前にひかれてこっちにくるよ
その名を知ってはいけないよ
名前にひかれてこっちに来たら
首の無い手で噛まれちゃう
さあさあ逃げてどこまでも
足が止まれば
さあお終い
最初にどこを噛もうかな
子供達のはしゃぐ声と歌が聞こえる。
童謡とは世相を表し、子供達は無邪気に真実を歌い上げるのだ。
大通りで、裏路地で、井戸端で。
王都の至る所で子供達は流行の童謡を歌う。
大人達は荷運びをしながら、商売をしながら、家事をしながら、子供達の歌を意識しなくとも耳に入れ生活の中に浸透させていく。
不穏とは平穏な日々に、そうやって忍び込んで来るのだ。
先日、王都で起きた新たな殺人事件に大衆紙は大いに沸き、それは飛ぶように売れた。
今まで連続殺人が起きていることを知ってはいたものの、その死に様は伏せられていたのだ。
被害者は革細工屋の見習い店員で、何より気の毒であったのは自宅の目と鼻の先で悲劇が起きた事だった。
今まではひっそりと物陰で起きていた事件が、人の目に付く事によって噛み殺された惨状も表沙汰になっている。
それだけでも人々に衝撃を与えたものだが、今回の事件はそれ以上に悲劇を伴っていた。
もし、家人のひとりが帰宅の遅い娘を心配して、灯りを掲げて玄関に立っていたら?
もし、大通りまで迎えに足を運んでいたら?
誰もが口をつぐみながらも被害者家族へ無遠慮な詮索をするような、そんな事を考えさせる事件であったからだ。
しかも当の夜、衛兵が彼女を保護しようとしたのに、それを本人が振り払った事も不可解であり人々の興味を引く事となった。
追われていると取り乱した彼女を衛兵2人が見つけ家まで送ろうとしたところ、いずこかに走り去ってしまったというのだ。
それが判明したのは、被害者が手に巻いていた布切れのお陰である。
それは衛兵に支給されるものであったからだ。
2人の衛兵がこの件の関与を疑われたのは仕方の無いことであったが、いかんせん動機もなく定時に巡回は行われていたので、すぐに容疑は晴れる事になった。
犯行はすぐに死に至らない様に彼女を傷付けながら、じっくりと時間をかけて行われていたのだから。
現場で被害者を検死した者は、こう思ったことだろう。
ゆっくりと晩餐を楽しんだのだ、と。
衛兵は被害者を見失った後も仕事をこなし、定刻通りに詰め所に戻ると不審な娘の事を報告をして記録に残していた事で自身の潔白としたのだ。
逃げ去る娘を追わなかった事を責める輩も一部にはいたが、それは詮無き事である。
まさか、次の日には死体となっているなど、本人達には知る由もなかったのだから。
ある新聞記者が子供達の歌う童謡から、この殺人鬼に名前を付けた。
「噛みつき男」と。
そしてそれは瞬く間に市民権を得ていった。
不可解な事象は名前を付けられる事で、社会に認知されより広まっていく。
漠然とした殺人鬼は「噛みつき男」として人々の中に定着したのだ。
信仰が、畏れが神を強くするならば「噛みつき男」と言う形を得たそれも同じく力を付ける事になったのではないかと危惧する識者もいたが、より身近になってしまった殺人鬼に大衆の意識が集まるのは当然の事であった。
そもそもその童謡は今にして始まったものではなく、昔から存在したものだ。
俗に言う「悪徳と背信の神」の歌。
かの神には頭が無く、白いぶよぶよとした溺死体のような肥満体で、その両の手に口を持つという。
そして封された場所から、呼ぶと来るのだ。
自分の名を知る者の下へ。
自分の名を呼ぶ者の下へ。
名前が結ぶ縁を辿りやって来るのだ。
だからこそ、その名は秘匿されている。
神は矮小な存在である人間に名を呼ばれるのを厭う為、その名前を呼んではいけないと言われている。
中には名前が隠されていないものもいるが、それは祟る力を失くしていると人に侮られた結果だ。
そうして名を広く知られた神は、敬われる事が減りどんどんと信仰を減らして力を持たなくなると人々には考えられている。
それを逆手にとって、人の営みの邪魔になるような神の名をわざと広めて存在を貶めることで力を削いで、人の力で討伐せしめんという神殺しの作法もある。
神の名を知るにはそれ相応の困難はあると思われるが、それを乗り越えてでも討たねばならぬという使命と意志を持ちうる者だけが成すのだろう。
人を虐げる神は、何年も何十年も、何百年も時間をかけてそうして畏怖や威厳を剥ぎ取られ、討たれ果てるのだ。
怪異を育て神とするのも、怪異を真実殺せし者も人なのである。
神とは人がいてこそ、存在するものなのだ。




