283話 貪る手です
娘はその足音に聞き耳を立てる。
気のせいでは無い。
何かがつけてきている?
かつんかつんと王都の石畳を木靴や革靴が叩く音ではない。
ひたひたとぺたぺたと素足の何かの軽い音。
物盗り?
大通りだからと油断していたが、行き交う人もいない夜更けだ。
大胆にも女ひとりならと犯行に及ぼうと思ったとしてもおかしくない。
裸足と言うことは孤児か宿無しの類いだろう。
ああいう輩は大体において弱っているので走れば振り切れるのでは無いか?
どこか、人のいる場所。
酒屋だって何だっていい。
思い立ったと同時に走り出す。
カツカツカツ
娘の革靴の底が音を立てて響く。
ひたひた
ひたひた
ぺたぺた
ぺたぺた
それは付かず離れず、音を増やしながら追ってくる。
相手はひとりではないのだ。
走りながらどうしようかと考える。
鞄に、作業に使う目打ちを入れていた事を思い出す。
鋭い刃先のそれならば、武器の代わりになるだろう。
暗い灯りの中、駆け足で移動しながら鞄を漁る。
包みにくるんだ目打ちを取り出し、右手に握る。
「痛っ!!」
焦ったせいか包みから目打ちを取り出す時に、その鋭い先端を手に刺してしまう。
ほのかなラベンダーの香りと混ざる血の匂い。
怪我など気にしている余裕はない。
血の流れる手で目打ちを握る。
いざとなったらこれで戦うのだ。
目打ちを痛い程握りしめ、石畳に点々と血の跡をつけながら一心不乱に大通りを走る。
ドスンッ
角から何かが出てきてぶつかったせいで、娘は勢いをつけて尻もちをついてしまった。
ああ、終わりだ。
追いつかれてしまう。
そう、絶望に駆られていると、眩い光が彼女を照らした。
「大丈夫ですか?」
それは街を巡回する衛兵であった。
魔石の嵌ったランタンを掲げて、娘を照らしている。
「あっあっあっ」
娘はまるで酸素を取り入れる事が出来ない金魚のように、口をパクパクさせた。
「落ち着いて下さい。一体何が?」
衛兵は2人組で、1人は彼女の走ってきた方角を不審そうに確認している。
「お、追われて。裸足の何かに追われて、私」
ようやく言葉を絞り出す事が出来たが、衛兵は怪訝な顔をした。
「周りには何もいないようですよ?」
衛兵が使うランタンは、かなり明るく広範囲を照らす。
大通りには、人どころか犬もいなかった。
つい、先ほどまで背中にまで音が迫って追いつかれそうだったのに。
「君、怪我をしているじゃないか!」
娘の手から零れる血を見て衛兵が驚く。
「物騒な物を持っているね? ぶつかった拍子に傷付けたのかい?」
「いえ、これは逃げてる最中に……」
そう言いながら振り向くと、点々と続くはずの血の跡はランタンの光の中、どこにもなかった。
自分は確かに走りながら、血を流したはずだ。
深く刺してしまった証拠に、未だ血は止まっていない。
衛兵は布切れを細く割いて、手に巻いてくれる。
どこか同情的な眼差しなのは、頭がおかしいとでも思われている?
「今はね、物騒な殺人鬼が出没するって話だから、1人で夜歩くのはオススメしないよ」
そういえば聞いた覚えがある。
このところ忙しいのと、ちゃんと眠れていないので不確かであるが、若い娘が物陰で噛み殺されているという事件を。
そんな事が起きているのに、何故暢気にひとりで夜に歩いたりしたのだろう。
自分で自分が信じられなかった。
「追われていたと言っていたけど、相手を見たのかい?」
「い……、いえ……」
質問をされるが、相手の姿ひとつ目にしていないのを思い出す。
聞いたのは足音だけ。
すぐそこに迫る足音だけなのだ。
あれは本当にあった事なのか、もしかして寝不足の頭が生み出した幻聴か?
だって、石畳にはあるはずの血痕がひとつもない。
「君を見かけて悪戯心を出した酔っ払いの仕業かもしれないね」
衛兵はそう慰めながら、青い顔で震える娘を気遣って途中まで送ろうと申し出てくれる。
ああ、あれはきっと勘違いだったのだ。
最近良く眠れていないから疲れているのね。
娘はそう自分に言い聞かせる。
「うまぁあいぃ」
舌鼓を打つような、嬉しそうな声が彼女の耳元でした気がした。
その声にハッと顔を上げ、周りを見渡すが何もいない。
ここにいるのは衛兵2人と娘だけ。
そして彼女は気付く。
血を流したのは幻では無く、石畳に落ちた血を何かが綺麗に舐めとったから跡がないのだと。
あの悪夢。
最近毎日見るのだ。
レンガ造りの建物の中、ひたひたと音を立て私を探している何者か。
私は、息をこらして見つからないように縮こまる。
舌舐めずりしながら、私を何かが探し回る悪夢。
これも夢なのか。
確かに手の傷の痛みはあるのに、これも悪夢の延長なのではないか?
ここが夢だとして、目の前の2人の衛兵は本当に衛兵なのか?
私を狙う何かではないのか。
娘は恐怖に駆られてまた、走り出す。
走る
走る
走る
カツカツと音を立てて
あの明るい光からも、逃げ出して。
遠くからあの衛兵達の声が聞こえる。
おーい
おーい
と、私を呼んでいる。
もう何だっていい。
家に帰らなければ。
安全な自分の家族の元に。
衛兵の声が聞こえなくなると、またあの足音がした。
ひたひた
ひたひた
ぺたぺた
ぺたぺた
息も絶え絶えに街の路地を走り抜ける時に、横からぬっと手が出てきた。
小さな子供の手。
幾つもの白い手。
その持ち主は目の無い裸やボロを纏った薄汚い子供達。
その手の平には口がついていて、群がるように抱きついてくる。
中には嬰児と思われる、四つん這いのものもいた。
そしてそれらは、両手と顔の3つの口で娘に齧り付いた。
「うまあぁぁい」
また、あの声がした。
娘の肉を味わう子供達。
幾つもの手に囚われて、口を塞がれ声を上げることも出来ない。
くちゃくちゃと自分の肉が咀嚼される音がする
ぴちゃぴちゃと自分の血潮が吹き出る音がする
何体もの子供がその顔と両の手についた3つの口で身体中に噛み付いている。
のそり
と白い大きな影が娘を覗き込んだ。
悲鳴を上げることが出来るならば、彼女は声の限り叫んだ事だろう。
その巨体には頭が無く、娘に向ける両手には子供達と同じく口がついている。
娘の口はもう塞がれていなかったが、悲鳴が上がる事はなかった。
声を出すべき器官は喉を齧り取られたせいで、ごぼごぼと血が溢れる音を立てるだけの肉になったのだから。
為す術なく自分が齧られ血の海が出来上がるまで、彼女はじっとそれを見ていた。




