282話 夜道です
王都の夜更け。
大通りを照らす街灯は夜遅いせいか、その光量を落していた。
すっかり昼間の喧騒はなりを潜め、煌々と灯りが人の生業を照らすのは人の行き交う20時頃までである。
それを過ぎると街頭に使われている魔石の節約の為、光を半減させるのだ。
夜中等、人が通らないのだから街灯等不要だと言う人も多いが、夜を徹して走る伝達人や急患に駆けつける医師、見廻りをする衛兵等の為にも大通りくらいは光をという配慮である。
実際にはそういう仕事人よりも、夜通し灯りがある事は夜の犯罪を減らす事になり住民が恩恵に預かる事になった。
闇がすぐ近くにあるこの世界、そんな時間まで空いている店は飲み屋か娼館くらいで皆、日が沈むと共に店を畳んで帰宅するのだ。
ある者は自宅へ、ある者は木賃宿へ。
皆それぞれ夜闇から身を守る為、自分の縄張りへと帰るのだ。
その女性は足早に歩いている。
このところ夢見が悪いせいか、仕事に集中出来ていなかった。
そのせいでこんな時間になってしまったのだ。
革細工の店で働く彼女の手の平には、幾つかタコが出来て硬くなっていた。
下働きと売り子だけでなく簡単な縫製もする様になってから、特に親指の第一関節の皮膚が硬くなり、ついそこを弄るのが癖になっている。
技術を身につければ、家庭に入っても収入になる。
まだ結婚なんて相手もいないけれど、革細工の親方か身内の誰かが放っておいても何処からか相手を見繕って来るだろう。
今は出会いよりも、仕事を身に付ける方が先だ。
そう思いながら、彼女は自分の厚くなった手の皮膚を触った。
女性として出来れば綺麗な手でいた方がいいのだろうけど、こればかりは仕方がない。
革細工には力がいるし、手が荒れるのは自分にとっての勲章の様なものだ。
その娘はふと思い立った様に足を止めると、革帯に付けた鞄から小さな容器を取り出しておもむろに蓋を取った。
中には薄黄色の軟膏のようなものが入っている。
そっとそれをひと撫でして指先に少し取り容器を元に戻してから、丁寧に手の全体に伸ばす。
皮膚の硬いところには、何回も刷り込むように……。
あれは変わった貴族だった。
3週間程前だったか、店に来て手ごろな鞄を探していると言った。
要望を聞いて商品を見繕っていると、働き者だと褒めてくれたのだ。
下働きの見習いに、声をかける貴族も珍しい。
その上、こんな下町の娘に詩人のような美辞麗句を並べたと思うと次は文字は読めるかと聞く。
教会に通っていたので最低限は読めると答えると、あの人は満足気に笑い店で1番高い品を購入してくれたのだ。
お陰で親方は上機嫌だし、給金に色をつけて貰えた。
それよりもっと不思議だったのはあの人が帰った後、店の隅に「案内してくれた君へ」とカードと、今手に塗った軟膏が置かれていたのだ。
私は親方にも他の見習いにも黙って、それをそっと自分のものにした。
あの人は、いつの間にこんなものを用意したのだろう?
軟膏は今話題のシュピネ村の蜂蜜軟膏で、手に伸ばすとほんのりとラベンダーの香りがした。
その香りと伸びのいい蜂蜜軟膏を手に刷り込むと、自分の様な町娘がどこかのお嬢さんにでもなったかのような贅沢な気持ちを味わえるのだ。
家で使うと、いつ姉妹や母親に取り上げられるかもわからないので、こうして帰宅の時間に楽しんで香りが薄くなる頃家に着くという塩梅だ。
一時の楽しみ。
あの人には気まぐれで他愛のない贈り物なのだろうけど、下町の人間が貴族の人から贈り物をされるなんて行為はなかなか体験出来ない事だ。
何だか自分が特別な存在に思えてくる。
お嬢さんならこんな風に足早に歩いたりしないだろうと、歩みを緩めて少し気取って歩いてみる。
昼間なら周りに冷やかされるかもしれないけれど、街頭の灯りもそこほど届かない今だからこそ出来る事だ。
それにしても、カードの裏に書かれていたのは何だろう?
「Y'golo……」
書かれていた単語を口に出してみたが、途中で止めた。
変な話だが、それを声に出すと寒気がするのだ。
これは夜気のせい?
それとも気のせい?
どういう意味だろう。
休みがとれたら図書館で調べてみる?
行ったことはないけれど、図書館は自分なんかの身分では入れてはもらえないかもしれない。
せっかくの休みを無駄にするのは、馬鹿がする事だ。
教会へ行って、聖教師様に聞いてみるのがいいかもしれない。
忙しくて礼拝にも行けていないし、ついでに近くのお店を見て回るのもいい。
もし、「愛しい人」とか「麗しい人」とか言う意味だったらどうしよう?
ふふ、それはないわよね。
せいぜい「ありがとう」とか「良い一日を」とかの古語や異国の言葉じゃないかしら?
娘は自分の想像に、クスクスと笑ってみせる。
少しばかり夢を見るのは悪い事ではない。
誰にも迷惑をかける訳でないし、自分の気分は良くなるのだ。
人の行き来のない夜の通りをご機嫌で歩く。
ひたひた
ひたひた
娘の後ろから、何やら付けてくる足音がした気がした。




