245話 ペチカです
クロちゃんがこんなにも匂いを嗅ぐなんて、どうした事だろう。
抱きついた時も、気になるような匂いはしなかったというのに。
それにしてもこれは礼儀がなっていないではないか。
私はしゃがんで力いっぱいクロちゃんを引きはがそうとしたが、首を伸ばして、なおも匂いを嗅ぎ続けている。
この執念はなんなの!
美味しい好物の匂いでもするというのか。
「いいのですよ。見慣れない異国人が珍しいのです? かわいいお友達ですね」
チェルノフ卿は、クロちゃんとビーちゃんに集られても一向に動じす笑っている。
心の広い人で良かった。
「普段はこんな事しないのですけれど、一体どうしたのかしら」
「見慣れないものに警戒しているのかもですね。シャルロッテ様はどちらへ行かれるところでした?」
「貴賓室へ向かう最中です」
「では、途中までお送りしますですよ」
そういうと右手をさっと私の手の添えやすい位置に出す。
訛ってはいるがその所作は洗練されているし、紳士の代表といった感じだ。
「では、お言葉に甘えて」
肉付きのいい手をとると、やはりふよんと柔らかい。
もう一度、ふにふにしたくなってしまう。
「卿の国のサモワールも独特でしたが、他にも沢山独自の文化がおありなんですね。本で読みましたがとても興味深いですわ」
ノートメアシュトラーセはこの世界の例にならって地母神教を信仰している。
それと同時に、山岳信仰を持つ土地でもあるのだ。
この世界の最北にそびえる、人類未踏破の黒い高稜。
足を踏み入れれば正気では戻れないという狂気山脈を抱える北の大国である。
その立地からも特殊性が見て取れる。
「サモワールは寒い部屋への行き来を減らすために考えられたものですが、同じように寒さを嫌った我が国の暖炉はペチカというもので上は人が寝られるように作ってあるのですよ」
「暖炉の上にですか?」
初めて聞く話に私は目を丸くした。
「実物を見たことが無い人には、とても驚かれますね。私の国の暖炉はとても大きくて部屋の間仕切りにする程なのです。暖炉で部屋を仕切る事によって、どの部屋も温かく保たれます。農家などは家の4分の1を暖炉が占めるのですよ」
「そんなに大きいのですか」
それ程大きな暖炉ならば寝台が付いていてもおかしくない。
本で知らない国を知るのも楽しいが、やはりその国の人の口から直接聞くのは面白いものだ。
この国では暖炉は各部屋にあるものだし、建物の構造からして違うのだろう。
「そして煙道がとても長いですね。ペチカは立ち上がりに非常に時間が掛かりますが、一度火を入れれば半日以上暖かいですし、台所としての一角は『おかみさんの角』と呼ばれて決して男衆は近寄っては行けないのですよ」
女性の縄張りなのだろうか?
それとも家事を取り仕切る女性への労いの暖かい特等席かもしれない。
「チェルノフ卿も、クートに近付いた事はないのですか?」
「もちろん! この世で一番敵に回してはいけないのは家を護る女性ですからね」
そう言うと、声を立てて笑い出した。
どの国も家を盛り立てて守る女性には、頭が上がらないようである。
チェルノフ卿は年齢は分からないが、妻帯していてもおかしくはないように見えるし、彼に似たゆで卵の様な顔の子供達がたくさん家にいたらと想像すると何だか楽しいでは無いか。
「ハンプティダンプティ!」
私はつい、声をあげてしまった。
「どうされましたですか?」
顔を覗き込むチェルノフ卿に、なんでもないと誤魔化す。
彼をどこかで見た事があると思ったのは「マザーグース」の歌や「鏡の国のアリス」に出てくる挿絵のハンプティダンプティの顔に似ていたからだ。
卵に手足が着いた人間?である。
説明のしようがないし、卵人間に似ているというのは褒め言葉ではないだろうから正直には言えない。
そもそもアリスもマザーグースもない世界だもの。
もしかしたら、私みたいな存在が書き残しているかもしれないけれど。
「関係ない事をちょっと思い出しただけです。そういえばブリニを食べた事がありますわ。あれもチェルノフ卿の国のものですわね」
「ええ、良く食べられている品です。祝日の時などは魚の卵に燻製のサーモンを巻いたものが特に好まれておりますです。おいしいので私も好物ですよ。そうそう、シャルロッテ様考案という蕎麦麺もこの間、馳走になりましたです。蕎麦粉に慣れ親しんだ我が国でもない食べ方だったのでとても美味しく、興味深く頂きましたですよ」
ウェルナー男爵領への旅程に付き合ってもらった料理人のダリルは、着実に王都に蕎麦粉料理を広めてくれたようだ。
厳冬を越える為に蕎麦粉料理を推奨したこともあるが、蕎麦粉パンやタルトはまだしも蕎麦を打つには技術いる。
王宮のお抱え料理人になったとは聞いていないので、他の料理人に蕎麦麺の作り方を教えてくれたのだろう。
ダリルも蕎麦麺の開発を自分の手柄にしてもいいのに、私の名前を出すとは欲の無い事である。
こうやって思いもかけない人から蕎麦麺の話を聞くのは、小さな驚きと満足感を私に与えてくれた。
なんだか小さな自分でもこの世界に働きかけることが出来たような、そんな実感が湧いた。




