236話 隠し事です
壺の絵付けがまるで舞台の背景の様な深みをだして、それはとても素晴らしい。
素晴らしいのだけれど、自分とは関係ないものでトニの腕前を確認をしたかった……。
そうしたら、きっと手放しに誉めていただろう。
この作品は、礼拝堂の聖女コレクションに加えて貰おうか。
あの数々の聖女の美術品、あれを見た本人は何を思ったのだろう。
私と同じように独り歩きするイメージに、困惑したのではないだろうか?
それとも素直に喜んだ?
この気持ちをわかってもらえる仲間が欲しくて、つい昔の聖女様へ思いを馳せてしまった。
「この素晴らしさには、さすがのシャルロッテ様も言葉が出ないようですね。いやあ、この様な才を持つ職人を抱えてエーベルハルト侯爵領は今後も楽しみですね」
ロンメルは、満足気にトニの仕事を褒めたたえた。
「ああ、それとこちらもシュピネ村から預かっております」
うっかりしてましたとばかりに、商会会長は鞄から小さな箱を差し出した。
中を開けると、ハンカチが入っている。
目に飛び込んだ刺繍を見て、すぐさま蓋をした。
「こちらは自室で拝見させて貰いますね」
ロンメルは少し怪訝な顔をしたが、琺瑯の出来栄えの方に気を取られてか何も言うことは無かった。
彼は新しく始まる足湯事業に夢中なのだ。
私達は、トニの足湯桶を見ながら話を煮詰めていった。
「ソフィアも、久しぶりの里帰りで羽根を伸ばしているでしょうね」
部屋に下がった私に、マーサがお茶を入れながら話し掛ける。
クロちゃんとビーちゃんが今日のお茶はなにかな?というように、マーサの手元を覗き込んでいる。
物見高い彼らに、マーサも慣れたもので動じない。
あんな事があったのだから、マーサにもゆっくりして欲しいのだが働き者の彼女は、ソフィアがいない間の私の面倒は自分がみるのだといって聞かなかったのだ。
シュピネ村のあの1件が、善良なマーサに与える影響を懸念したものだが、神話的事象にも人の悪意にも縁が無い彼女の心をあれが蝕むには至らなかったのだ。
本来は闇に怯え、人に怯え、蜘蛛を見るたびにその正気を減らしたかもしれない。
これはラーラから聞いたのだが、黒山羊様はマーサに柔らかな忘却なるものを与えたのだという。
それが何を指すか当初は誰にもわからなかったのだが、最初こそ怖がっていたマーサだが、村からエーベルハルト領に着く頃にはすっかり元の日常と心の平穏を取り戻していたのだ。
ラーラの様に胆力も無く、恐怖に対して抵抗力の無いマーサはもしかしたらあの夜の事が原因で、闇に心を呑まれ徐々に壊れる運命だったのかもしれない。
それを黒山羊様が止めてくれたのでは無いだろうか。
そう遠くはない未来、彼女のシュピネ村の記憶は楽しかった事のみを残し、恐怖については綺麗に洗い流したように消え去るのだろう。
祭司長の言った記憶をぼんやりとさせる魔術。
それと本質は同じでは無いだろうか。
商会職員の虚ろな記憶は、ドリスの軽口を重く受け止めて勘違いしたのだろうと結論付けられた。
一介の職員に余り責任を押し付けるのは気の毒であるし書面でのやり取りがない以上、言った言わないは水掛け論になってしまう。
なにぶん記憶が定かでないのだから、それ以上の追求は出来なかったのだ。
「さあ、お嬢様。お好きなヌガーもつけましたよ」
笑顔でマーサがテーブルにセッティングしたのは、白い大理石のような美しいお菓子。
それどころでは無かったのは確かなのだか、シュピネ村お土産を買い忘れたと私が零したのを聞いたマーサが、ハンス爺にヌガーの調理法を図書室の本の中から探させて料理人に作らせたのだ。
彼女いわく、私がシュピネ村に行かなければこの屋敷でヌガーを知るものはいなかったのだから、これが土産であるという。
このお菓子はすっかり館の人間に気に入られて度々テーブルを飾る様になった。
「読書をしながらのんびりお茶をしたいから、マーサも下がっていいわ」
私の言葉にマーサはごゆっくりと声を掛けてから退出した。
ふんふんとヌガーの匂いを嗅ぐ2匹に、小さい欠片をお供えする。
基本は普通の餌を食べて普通の生き物を装っているが、実際には何も食べなくても大丈夫だし、反対に何でも食べられるようだ。
人の脳みそを食べたりはしないでいて欲しいけれど。
マーサが下がるのを確認してから、先程ロンメルから受け取った箱を開ける。
そこには美しい金色の花の模様に、私がデザインした山羊のマークの刺繍が入ったハンカチが収められていた。
「この最初の金糸は記念に、トビアスとシャルロッテちゃんのハンカチの刺繍にしようかしら」
明るい声ではしゃぐドリスの声が思い返される。
箱の中には差出人の名前も、ましてやメッセージカードも入ってはいないが誰からの贈り物なのかは明らかであった。
泣き出しそうになるのを我慢してヌガーを口にしてごまかそうとしたが、それはまたドリスを思い出す手伝いをしただけであった。
お菓子の並ぶお店で、ヌガーの小さな欠片を私の口にポイと放り込んだ彼女。
おいしいと呟く私に、嬉しそうな顔をした。
ゲオルグの話では、いつも青痣を作って俯いて人目を避けていたそうだ。
夫を訴えようと言われても、黙ったまま首を振るだけの無力な女。
化粧もせず、一切の望みもわがままも口にしなかった昔のドリス。
私の頬を涙が伝う。
同情では無い。
誰にも彼女を思って泣いた事を知られたくなかった。
彼女を慕った事は、表に出さないと決めたのだから。
声を殺して涙する私の顔を、クロちゃんとビーちゃんが心配そうに覗き込む。
抱き寄せると2匹は頬擦りしながら慰めてくれた。
ハンカチはマーサもソフィアも、誰も触らない小物入れの奥にしまうことにする。
そうして私は新しい小さな隠し事をひとつ持つことになった。
秘密というには何でもない他愛のない子供の隠し事。
いつか平然とこのハンカチを使う事が出来るほど強くなれたらいいと思う。
いつも閲覧ありがとうございます。
後1話で第四章も終わりとなります。
その後の予定としてコリンナの話を週に1、2話更新で全5話投稿後、新章に入りますが現在プロットを練り中なので不定期更新か、しばらくお時間を頂くかもしれません。
気長にお待ちいただけると幸いです。




