230話 あの職人です
ロンメル商会に借金があるエーベルハルトの若い琺瑯職人?
私はそれを知っている。
「ああ! 足湯桶の発注!!」
私が声を上げると、何事かと注目が集まった。
商会会長が言っていた、腕が良いが仕事をとってくるのが下手な琺瑯職人とはトニの事だったのだ。
確かにアリッサを追ってきたのは感心するが、行き倒れたり村の入口で叫んだりする行動を振り返ると、お世辞にも世渡り上手とは言えない。
足湯桶の仕事で借金は返せるとロンメルも言っていたし、ここで捕縛されては寝覚めが悪いと言うものだ。
ここは私が納めるしかない。
深い溜息をひとつついてから、私は商会職員に目に見えた作り話をするはめになった。
「トニの借金の事はロンメル商会会長から伺っておりますわ。発注と言うのはエーベルハルトからの依頼の件ですよね。申し訳ありません。注文の件で話がしたくて、気がせいた私が工房に伺ったところアリッサがシュピネ村に行った事をトニが心配しておりましたので、私もこちらに用がありましたので一緒に来て頂いたのですわ。急な話でしたので逃げたようにみえてしまいましたのね。決して逃亡ではありませんわ」
調べれば、いや調べなくても嘘だとわかる事だろうが、この場を収めるには他に方法がない。
ここまで追って来たのだからトニが1人旅であったのもわかっているだろうが、私がここにいるのはこの商会職員が原因なのだ。
しかもその確たる記憶が曖昧なのだから、あちらも強くは出られまい。
こうやって隙につけこんで権力を使うのは良くない事だが、これ以上揉め事は避けたかった。
振り上げた拳の落とし所が無いのは申し訳ないが、ここは涙を飲んでもらおう。
「そ……、そうなのですか」
先程の曖昧な記憶の混乱もあってか、追及するのは止めてくれたようだ。
「お手間をとらせてしまって謝罪致しますわ。この埋め合わせは、これから興す新しい事業とトニの製品でさせていただきますと商会会長にお伝え下さいます?」
ロンメル商会は今ではすっかり聖女お抱えと周知されているので、一介の職員がどうして逆らえようか。
頭まで下げられては、今後が危ういと思ったのか何度も頷いて手を引いてくれた。
アリッサとトニも胸を撫で下ろしている。
「あ、シュピネ村の新しい商品を聖女様が作ってくれたから、村に顔を出すといいわよ! せっかくここまで兄さんを追ってきたんだし、それなら無駄足にならないでしょ?」
脳天気にアリッサが、職員に提案している。
これはトビアスも初耳だったので食いついた。
「シャルロッテ嬢、どういうことですか?」
私は絹蜘蛛の話を領主に黙っているのは失礼であることに、ここで気がついた。
「あ、あの差し出がましいかも知れませんが、村の特産として少し助言を……」
「あの短い滞在でそんな事を君はしていたのか」
「元々あった蜜蝋軟膏に精油を混ぜた美肌クリームを提案したのと、絹蜘蛛の金糸を見つけただけですわ」
トビアスと職員は目を見張って驚いている。
「絹蜘蛛の金糸!! こうしてはいられません。村の方に一刻も早く顔を出さなければ! トニさんの事はご令嬢にお任せします。必ず工房に帰して仕事をさせて下さい!」
しっかりと発注書と督促状をトニに握らせてから目の色を変えて職員は馬車に乗ると、村へと向かってしまった。
「騒がしい方でしたね」
残された私達は、つむじ風のような一連の騒ぎに呆気にとられていた。
「ヘルゲン。シャルロッテ嬢は我が領にとっての女神のようだ」
我に返ったように、トビアスは後ろに控えていた執事に声をかけた。
村の収入が上がれば子爵領も潤う。
領主代理に荒らされた領地の立て直しに、新しく見込める収入はとても貴重だ。
少しはトビアスにも、休む余裕が出来るかもしれない。
「子爵領にご尽力下さいまして、私からも感謝申し上げます」
執事が恭しく礼をとる。
「後日、正式に感謝の旨をエーベルハルト侯爵を通して送ることにしよう。シャルロッテ嬢、この度は本当にありがとう」
トビアスは跪いて感謝をした。
「まさしく聖女であることよ」
「トビアス様からそう言われると複雑ですわ」
最初は聖女に懐疑的だったのを思うと、苦笑いになってしまう。
そうして滞在の礼を告げて、やっと私達は帰路に着くことが出来た。
私達が出発した後、村に向かったトビアスと先にシュピネ村に着いていた職員は変わり果てた村長を目にして、大騒ぎになったらしい。
職員から商会本部を通じて地母神教へ連絡が行き、ドリスの足の失われた骨についての奇跡の検証や地下室に残った地母神の蔓の保存、養殖が不可能とされていた絹蜘蛛の巣の発見、新しい蜜蝋軟膏と村はてんやわんやだったと、後日、商会会長から聞かされた。
騒ぎを起こすにしても手加減するようにとロンメルに釘を刺されたが、そんな気はなかったので複雑な気持ちになったのは仕方がないことだろう。
黒山羊様の降臨した地としても名前が広まったのは、村としていい事だ。
ウェルナー男爵領のように案内本を出す話もロンメルから提案されたが、充分な話題性を持ったあの村には必要がないような気がしてそれは断ってしまった。
もう2度と足を踏み入れないと決めた村の本を、私が書くのは相応しくない。
忌まわしい記憶を持たない私でない別の誰かが、平和で穏やかな村として紹介する方がいいような気がしたからだ。




