228話 女の一生です
小さな村の家の広間で、見惚れるような優雅な所作で侯爵令嬢は最上の礼をとると、去って行った。
シャルロッテの最後の言葉は、子供っぽい感傷の言葉ではなく聖女のものであった。
そのお辞儀はただの女と子供ではなく、村長と聖女であることを明確に線引きし示していた。
最初から、共に進むことは出来なかったのだ。
残されたドリスの頬に涙がつたう。
人に甘い子供だ。
お人よしで、優しすぎる。
少女が去ることが、悲しいのではない。
無駄ではなかった事。
少女が汲んでくれた事。
それが嬉しかった。
目的は不純であったが、彼女が時間を費やして紡いだ村は、あの清純な少女から敬意を向けられるものだったと知り、ドリスの枯れ果てた心に涙が染み込んでいく。
「うー、あぁ……」
ふいに夫は何事か呻くと、彼女の頭をそっと撫でた。
花の咲き乱れる小さな村で、彼と出会った。
あの時もこうして同じようにしてくれた。
言葉を尽くして彼女を求めてくれた当時を思い出す。
馬鹿な小娘であったけれど、楽しい事もなかったわけではない。
変わり果ててしまった。
だが、彼女がどうしてこうなってしまったのだろうと、過去を振り返り後悔することは2度となかった。
その後、シュピネ村は絹蜘蛛の金糸と蜜蝋軟膏の2つでより名を上げることになる。
ロンメル商会の協力があったとはいえ、村をここまでにしたドリスの手腕は、新しい商品についても充分に発揮されたといっていい。
彼女がもし無学の村娘ではなく、商人や実業家の娘として生まれていたら、また別の人生が待っていた事だろう。
村からの申し出で、正式に地母神教の教会が建てられる事になると村民は敬虔な地母神教徒となり、今まで世間からどこか避けられていた異教徒という部分が払拭され人が行き交うようになった。
アトラクナクア教は姿をひそめ、他と同じくその工房の隅に織物の神として祀られるのみである。
村の利益が上がった数年後には、一人の教師が雇われて村人の教育にも力がいれられるようになった。
聖女の訪れが村の転機となったのは、言うまでもない。
村長宅の前庭には2人乗りの横長のブランコが置かれて夫婦で並んで座り、何をする訳でなく風に揺られているのが良く見られるようになった。
ドリスは、時間があく限り老人に寄り添っていた。
彼女が心の底で欲しかったのは、夫との静かで幸せな生活。
もしかしたら、今になってそれが叶ったといえるかもしれない。
「散々この人にはひどい仕打ちを受けたけれど、それ以上のことを私はしてしまったわ」
そう言って片足が不自由ながらも、献身的に世話をしているのは村人の目にも明らかであったが、一体、いつからこの老人はこの村にいたのか。
最初の夫なのか、再婚したのか別の土地にいたのを、引き取ったのか。
降って沸いたように現れた村長の夫に、皆が頭を捻ったがここは女性の避難所である。
誰しも抱える秘密のひとつやふたつあるもので、それを探ろうとする者はいなかった。
陽気で明るかった彼女は、聖女のせいか夫のせいか物静かな人物となったせいで、その変わりように随分とトビアス・フーバー子爵は気を揉むことになる。
ドリスは地母神教の奇跡の生き証人として、見世物のように村へ来る物見高い貴族の目に晒されたが、それを甘んじて受け入れていた。
村の外では、奇跡を受けた身を妬んでか「蛸足女」や「骨無し」と悪し様に言われる事もあったが、ほとんどをシュピネ村で過ごす彼女には、どうでもいい事であった。
何故、その様な目にあったのかは堅く口を閉じてみせたが、それは黒山羊様による自分への正当な罪の裁きであると主張し、それ以上は沈黙を守った為、聞き出せた者はいない。
神が断罪を終えた彼女の罪を追及する罰当たりはいなかったが、好奇心旺盛な人々により当時、村を訪れた聖女に何か不敬を働いたのだろうことは事実の様に伝聞された。
その証拠に、その後聖女は2度とこの村を訪れる事はなかったのだ。
聖女の機嫌を損なうと神の鉄槌が下る、骨無しになってしまうと、噂好きな人々の間でまことしやかに囁かれる事になった。
ドリスがその食癖を改めたかどうかは、誰にもわからないことである。
だが、王国から配偶者や家族から暴力を受ける女性の保護区としてシュピネ村が正式に認められ、村の護衛として騎士団の派遣が決定し、ドリスの異能がなくとも村の安全は確保されることとなった。
シュピネ村及び虐待を受ける人々を保護する施設が国の援助に相応しいと認められるまでに、聖女と仔山羊基金は多大に尽力したことは多くに知られる事実である。
足を運ぶことの無い村の為に、何故そこまで力を尽くすのか。
周りからは疑問に持たれていたが、それも「聖女の慈悲」という耳障りの良い言葉で納得された。
シュピネ村という稀有な村をシャルロッテとドリスは互いに間接的に直接的に関わる事で、望んだ形は違うが共に手を差し伸べて紡いでいったといっていいだろう。
地母神と蜘蛛の神。
ドリスと言う、奇しくも2つの神と縁を持った村の女。
彼女の連れ合いが亡くなると表舞台からは身を引き、村からはずれた洞窟のそばに居を移して、糸を紡ぎながらその長い長い生を静かに過ごすことになる。
文字を覚えて拙いながらも手紙が書けるようになると、書簡のやりとりで旧くからの知己である地母神教祭司長のゲオルグ・ハインミュラーと親交を深めたことが知られていて、その内容は主に祭司長からは仔山羊、ドリスからは聖女についてであったという。
人とは違う緩やかな歳の取り方と、その長命から後に彼女は「蜘蛛村の魔女」と呼ばれることになるが、老いてから機嫌がいい時は決まって「私の可愛いシャルロッテちゃん」と当代の聖女の話をしたそうだ。
彼女にとって少女と過ごした、たった数日の出来事はいつまでも色褪せぬ輝かしい宝物なのであった。




