225話 夢の跡です
私は夢でも見ていたのであろうか?
不安を覚えてふと掃除をしている床を見ると、床板がひび割れて植物の蔓が伸びている。
これはあれだ。
床から伸びてきて椅子になったりする、便利な黒山羊様の触手の蔓ではないだろうか。
確かに、この地下室に黒山羊様はいたのだ。
神様が私を忘れた訳ではないと思うと、にんまりと口角が上がってしまう。
あの綺麗な人は、ちゃんと私を覚えていてくれた。
何だかそれだけで、私は嬉しくなってしまった。
「はっ! マーサとラーラ? トニさんは?」
黒山羊様の話と忙しなく掃除される周りの日常の空気に飲まれて、うっかり大事な事を忘れるところだった。
起きてから何だかいっぺんに色々な情報が溢れて、頭の中が混乱している。
マーサとラーラは、あの時私を守ろうと必死になってくれたのに。
「ぐっすり眠っているので、2階の客間に運んでいます。勿論、何事もありません」
私の心配に気付いて、アリッサが教えてくれた。
「黒山羊様が全部良いようにしてくれたので、大丈夫ですよ」
とても満ち足りた顔でそう言う。
こんな顔をする人だった?
「アリッサも体調は大丈夫なの?」
「あんな事に加担した私まで気に掛けてくれるなんて、お優しいんですね。それも黒山羊様の御業によって、申し分ない体に変えていただきました。私もう空っぽじゃないんです。内緒ですが黒山羊様の眷族に加えて頂いたのですよ」
嬉しそうに私に耳打ちするが、その目は爛々と輝いて狂信者の部分は変わらなかったのではと心配になる。
あの美しくて優しい黒山羊様に会ったなら、それは好きになってしまうわよね。
私の体を使ったという事は、山羊の角が生えたり蹄になったりしてたのかしら?
頭を触ってみるが、その痕跡は見当たらず黒山羊様の余韻を示す物が無くて少しがっかりしてしまった。
角があったらあったで大変なのだろうけど……。
地下室から出ると、室内灯はついているが、まだ辺りは真っ暗で夜中である事がわかる。
台所には、夕餉の煮込みの残りが鍋に残されて冷えていた。
皆でドリスの料理に舌鼓を打って、エルダーフラワーのコーディアルの話をしていたのに。
ほんの数時間前の事が、ずっと昔の事の様に思われた。
よくわからないけれど、全て終わったの?
ここに来てようやく聞けなかった事をアリッサに尋ねる事が出来た。
「ドリスさんは、どうなったんですか?」
アリッサの顔が少し曇るが、すぐに答えてくれる。
「もう1つの地下室の部屋にいますよ。黒山羊様に少々お仕置きをされたので、今は会われない方がいいです。明日の朝くらいには話が出来るようになっているといいんですが。黒山羊様の伝言はその時に聞いて下さいね」
「もう1つの地下というと、ご老人がいる?」
「あら? ご存知だったんですね。ええ、ドリスの旦那さんの部屋です」
一瞬、しまったと思ったがアリッサは何も追及することはなかった。
ドリスに暴力を振るっていたという夫……。
てっきり、もう亡くなっているのかと思っていた。
あんな異形の存在になっても、彼女は夫を殺すことが出来なかったのだ。
誰にも知られたくない秘密の様に、自分の愛情と憎しみの対象を暗い地下室に隠して、彼女はここで過ごしてきたのか。
改めて彼女の情の深さを思い知る。
2階に上がってみると、ベッドとサイドテーブルがいくつかセットで置かれた部屋が並んでいた。
ここが逃げてきた女達の避難所という訳だ。
私物が置いてある窓際のベッドは、アリッサが使っているものだろう。
それと反対側にマーサとラーラとトニが眠っていた。
苦しそうな素振りもなく、ただ眠っているだけのようだ。
「兄さんは疲れと薬のせいで結局起きなかったんです。我が兄ながら呆れるわ。こちらのお2人は黒山羊様が魔法か何かで眠らせたようですよ。見なくてもいいものを見せないよう黒山羊様のご慈悲でしょう」
それを聞いて、やっと安心出来た。
もう安全なのだ。
やはり黒山羊様は優しい。
見なくてもいいものというのは、ドリスへのお仕置きの事だろうか?
きっと、きつく叱られたのに違いない。
人の脳を弄るなんて、私だって許せなかったもの。
黒山羊様も私の体を使ってここへ来るなんて、さすがに見るに見かねたのだろう。
そういえば、アリッサが先ほどトニのことに言及した時、呆れながらも仕方がないといった風な、身内ならではの情を感じた。
全部良いように。
彼女の言ったその中には、アリッサの失われた感情も入っているのかもしれない。
楽しい夕食と恐ろしい地下室の出来事。
どう思い返しても、何かの間違いか夢の中の事のように思える。
黒山羊様が来てくれなければ、全てが悪夢に飲まれていたと思うと、何度感謝してもしきれない。
明けない夜は無く、深い闇の後は陽が昇るのだ。
アリッサに眠るように言われたが、横になる気持ちになれず、私は朝が来るまでマーサとラーラの寝顔を飽きずに眺めていた。




