224話 交渉です
艶麗な少女はドリスの返事を待つことなく、その後ろの女性に声を掛ける。
「そっちの小娘」
「は、はい!」
呼ばれたアリッサは、素っ頓狂な声を上げた。
ドリスの惨状を目の当たりにしているのだ。
声が出ただけ、上出来であるといえよう。
「お前がこの子に生涯仕えるというなら、人には戻せないけど私がお前を完全な形にしてやってもいいわ。箱庭に虫が入り込んでるようだから、駆除の人手が欲しいの。ただし私の眷族の末端となるから、そこの女とは似て非なるものになるけど。そのままだと、乾涸びて死ぬだけだし、いい話じゃない? ああ、あの洞窟に篭って暮らすなら奥から魔素が湧くから多少生き延びられるかもしれないわね」
「わ、私を黒山羊様の眷族に!」
アリッサは思いがけない誘いに、頬を紅潮させた。
それはまるで、王子様に声を掛けられた村娘のような反応である。
童話に出てくる貧しい娘が王子に見初められるような、そんな夢見心地の表情。
「仕えます! 黒山羊様とシャルロッテ様に!」
そう、彼女は世を儚んだ訳でも、憎んだ訳でもなく偶然、蜘蛛の聖別を受けただけなのだ。
アリッサには、アトラクナクアへの義理も恩もない。
その小娘の胎は空っぽどころか、その意思も薄っぺらであったのだ。
ドリスは無性に笑いたくなってきた。
こんな酷い目にあっても、誰も助けてはくれない。
信じた神はずっと巣を張り続ける事だけに夢中で、自分を見てくれる訳でもない。
長年待ち続けた仲間だと思った娘は出来損ないの上、秒で手の平を返してみせた。
夢に見た子供を得ようとしたら、この様である。
今まで築き上げてきた全ては、まるで蜘蛛の巣を払うかの如く消えていく。
「そちらの蜘蛛の女はどうするの? 先程の提案を飲む? アトラクナクアに義理立てして死んでおく? どっちでもいいわよ。その時はせっかくだし、全部の骨を取り出してあげましょうか」
弾んだ声で恐ろしい事を言う。
「黒山羊様のお導きのままに……」
ドリスは、ついぞ口にしなかった地母神教の文言を久しぶりに呟いた。
捨てたはずの宗教に、神が怖くて戻るなんて誰が想像したであろう。
黒山羊様を祀ってもアトラクナクア様は怒らない。
その関心は蜘蛛の巣だけで、彼女の眷族がどうなろうと関係ないのだ。
自分は勝手に、あの奈落にかかる美しい蜘蛛の巣に身を投げただけなのだ。
その巣に絡め取られた哀れな女を眷族に仕立て上げはしても、その美しい糸を紡ぐ手を差し伸べてはくれないのだ。
きっとドリスが死ねば、またひとり眷族が産まれて必要に足る信仰を得られれば満足なのであろう。
それが無ければ無いで、機織り職人達の漠然とした信心を糧としていくのだ。
どうして、こうなってしまったのだろう。
つまらない女が神に選ばれて、特別な者になれたと舞い上がった。
その神の威光を広める為に、女性の為の村を作り、餌にしていい人でなしの木偶達を引き寄せた。
この村は、この世に張られた自分の糧とアトラクナクアの信仰の為の蜘蛛の巣。
自分が為した事が、全て虚しく感じられた。
蜘蛛の神への信仰を失くした女を見て、つまらなそうに少女はぼやいた。
「ふうん、折角だしこれは返してあげるわ。スープの出汁にはなるんじゃない?」
カランと音を立てて、ドリスの右足の骨が床の上を転がった。
ガヤガヤと声がする。
気付くと周りは女性達が掃除をしていた。
何故か私の手は水の張った木桶に入れられて、村民と思われる女性に念入りに洗われているところであった。
どういう状況なの?
私が目を覚ましたのに気付くと、ひっと声を上げながら周りの人達は跪いた。
そんな反応されたら傷つくではないか。
軽い足音がしたかと思うと、アリッサが私に飛びつかんばかりに駆け寄ってくる。
「お目覚めになられましたか? お体に異常は? ドリスさんが黒山羊様からの伝言を預かってるので、後で聞いて下さいね」
「え? 何故、黒山羊様?」
「先ほどまで、シャルロッテ様のお身体に降臨されておりましたのです。今後、アトラクナクア教徒の私達は黒山羊様に身を寄せて暮らしていくことになりました」
アリッサが慣れない敬語を交えながら伝えてくれた事柄に、私は軽い目眩を覚えた。
私の体に黒山羊様が?
なんて事!それじゃあ私は黒山羊様に会えないではないか。
何だか仲間はずれの気分である。
ひと目でいいから会いたかったのに。
いや、そんな事を考えている場合ではないのではないか?
私は眠らされて、マーサとラーラとトニも脳みそを吸われそうになっていたのではないか?
一巻の終わりのような状況だったはずだ。
何故、私は今アリッサと呑気に話をしているのだろう。
ここは先ほどの地下の部屋だというのに危険な匂いが一切無くなっている。
蜘蛛がどうなったのか聞こうとしたところ、またもや手を水に浸されていた。
「何故、そんなに私の手を洗うの?」
掃除をしているのも気になるが、眠っていたのに手を洗われているのはすごくおかしな事ではないか?
何かの儀式?
「聖女様のお手が汚れたので、丹念に浄めさせて頂いてるのです」
汚れたといっても、普通の手に見える。
「もう綺麗だと思うのだけれど、私の手が一体何で汚れたというの?」
「聖女様は知らないでいいのですよ。さあ、拭き清めましょうね」
女はそう言うと、柔らかな布で私の手を包んで水分を取るとこの間作った精油入りの蜜蝋軟膏を薄く塗ってくれた。
微かな薬草の匂いが心地よく鼻腔をくすぐる。
それがここがもう安全なのだと教えてくれたような気がした。




