22話 悪夢です
気が付くと私は天井に浮かんで眼下で繰り広げられている寸劇を見ていた。
左手が何だか熱い。
虫の羽音がする。
綺麗な貴族の女性が、ソフィアに向かってグラスを投げて罵倒している。
ソフィアが泣いている。
なんて事をするの?
止めに入りたいが、私は湯気の様にその場を漂い見ているしか出来ない。
ソフィアが泣いているというのに、その女性は嬉しそうに笑っている。
楽しそうに声を上げて。
場面は変わり知らない女性が、地に伏せている。
反対側にいる貴族の女性は、使用人に命じてその女性の顔を水を張ったバケツに入れさせて、どれだけ我慢できるかを見て手を叩いて喜んでいる。
その虐めをしている女性は、美しい声で酷い言葉を並べ立てていた。
その言葉を紡いでいるのは、ピンクがかった金髪で稀有な紫の瞳をしていて、お人形のように綺麗なのに歪んだ顔をしていた。
あれは私
何故そんな酷い事を
左手が熱い。
虫の羽音が、私をイラつかせる。
私はそんな事はしたくない。
でも、あそこの私はそれを喜んでいる。
侍女の態度が気に入らないと髪にハサミをいれたり、進路を邪魔した子供を罵倒して家来に折檻させている。
場面が進むと、薄暗い石畳の牢屋に繋がれた人がいた。
私はその様を眺めて、あざ笑っている。
爪の間に針を刺し、下僕に一枚ずつゆっくり時間をかけて丁寧に剥がさせている。
別の場面では憐れな男が指の先から少しずつ刻まれていた。
切ったそばから焼けた鉄の棒を押し当てさせて止血をすると、また別の指を刻む。
足の指が終わると手の指に、それが終わるとまた足の指。
順繰りに一本ずつ短くなっていく指。
大人になった私は、その場にそぐわない布張りの椅子に優雅に腰かけて、これからお茶でも楽しむかのように人が少しずつ人でなくなっていくのをうっとりと見つめている。
人が壊れるのが愉快で仕方ないのだ。
その苦痛の表情が、その怨嗟を含んだこちらを睨む眼差しが私の血を沸き踊らせて得も知れぬ喜びを齎してくれていた。
決して、自分の手では下さない。
この私の手は、きれいで白いまま。
それは甘美な、どす黒い愉悦であった。
喉いっぱいに溺れるほどのねっとりとした甘美を流されて、私は歓喜の声を上げるのだ。
醜い表情で、美しい大人の私は、人の尊厳を踏み躙るのを喜んでいる。
あれは私
確かに私
穏やかな日々を望んだ私は、一体どこへいってしまったのか。
平穏を望んだ気持ちを、何かがみちみちと音をたてて侵食していく。
私が食べられ、出来た隙間から悪意に置き換わっていく。
羽音が、虫の羽音が心地いい。
遠巻きに私を怖がる人達
そんな私に取り入ろうとする輩
いろんな人に酷い言葉を投げつけ、悦に入っている
やめて、そんなのはいや
そんな私はいや
そんなものをみせないで
左手が熱い。
めえめえと、声がする。
あれは私を呼ばわる声。
気怠く黒い沼に沈んでいく私を呼ぶ声がする。
何故、呼ぶのだろう。
ドス黒い感情に呑まれてしまえば、すっかり楽になるというのに。
いくつもの場面がどんどんと目まぐるしく変わり、どの舞台でも沢山の人を虐げて高らかに笑う私。
そんなのちっとも楽しくないわ
何故酷いことをするの?
そんな事をする為に、私は生まれ変わったのでは無い
かの神は、そんな事喜ばない
絶対に
めえめえと、声がする。
手が、握り混んだ左手の中心が熱い。
めえめえ めえめえ めえめえ
頭の中で仔山羊の鳴き声が響き渡る。
私はガバリと飛び起きた。
寝汗がすごい。
まだ夜の帳は開けず、闇が辺りに満ちている。
夜中である様だが、クロちゃんが私に鼻先を押し付けて必死で鳴いていた。
ああ、夢の中の声は間違いなくこの子のものだった。
ほっとしながらベッドサイドのランプに灯りをともすと、私の腕の中の仔山羊はその姿を失っていた。
仔山羊は四本足の生えた木目の黒い塊で、沢山の目がぐるぐると表面を回っている。
最初に見た時の異形だ。
何が起こったのだろう。
めぇめぇめぇめぇ
部屋に満ちているのは、ねっとりとした異様な空気。
悪意に匂いがあるとしたら、こういうものだろうか?
ネルケの甘い香りに混じって、それは確かにただよっている。
クロちゃんは私が起きたのを確認すると、今度は私の左手に鼻先と思われる部位を当てて鳴き出した。
手を開いてと言っている様だ。
見ると私は、知らない内に何かを握り込んでいたようだ。
熱い。
そっと手を開くと、両端の尖った赤い小さな桃の種のような物を私は握っていた。
その種からは、ウネウネと小さな根のような触手が何本も出ており、私の左手に根を降ろしている。
痛みはない、どうなっているの?
一体、いつから?
種が喰い込んでいる所は、熱を帯びているのがわかるが特に感覚はない。
どういう仕組みなのだろう。
不思議に思って見ているとクロちゃんの頭の口らしきモノがパカりと開き、その種とソコから出ていたウネウネをパクリと食べてしまった。
そして種を食べてしまった後は、私の左手を触手でわさわさと撫でている。
もしかしたら、あの種の痕を舐めているつもりなのかもしれない。
呆然と見ていることしか出来なかった。
クロちゃんの一連の行動が終わると、左手はただの左手になっていた。
痕跡も痛みも何もない。
部屋に満ちていた悪意も、キレイに消えている。
そこに残ったのは、静寂と私達。
「お嬢様? 大丈夫ですか? クロ様が鳴いていたようですけど」
ノックがする。
反射的に私は、異形の姿になっているクロちゃんをシーツの中に隠す。
それと同時にソフィアが、ランプを片手に眠い目をこすりながら扉を開けて顔を出した。
「ソフィアごめんなさい。クロちゃんどうしたのかしら? 場所が変わって寝惚けて鳴いていたみたいなの。私の布団に入ったら落ち着いたので、もう大丈夫よ」
私のベットの小さな膨らみを見ると、ソフィアは微笑んだ。
「ああ、そういう事でしたか。初めての場所でクロ様も不安なのかも知れませんね。わかる気がします」
私は問題がない事をソフィアに伝えて下がらせると、ひと息ついた。
シーツの中ではクロちゃんが、この姿になってごめんなさいというかのように縮こまっている。
こんなに怪異な姿なのに、いっぱいのどの目もぎゅっと閉じて怒られない様にしているのがかわいい。
「大丈夫よ、クロちゃん」
そっと抱きしめて、頭に思い描く。
艶やかな毛並みの可愛らしい生き物。
いつものクロちゃんを。
そのイメージは私から伝わるようにクロちゃんを包み込み、その姿を変貌させる。
そこには、いつものかわいらしい仔山羊がいた。
「守ってくれていたのよね?」
小さく、めえぇと返事が来る。
額に感謝のキスを落としてから、小さな仔山羊をぎゅっと抱きしめる。
先程の事は、なんだったのだろう。
悪意に囚われた未来の私?
クロちゃんが必死に守ってくれたのはわかる。
あの種は悪いものだ。
根を降ろし、私の中身を変えようとしていた。
クロちゃんが力の限り対抗してくれた結果、元の姿になってしまったのだろう。
ぶるりと、体を震わせる。
クロちゃんがいなければ、私はあの種の虜となり人を虐げていたのかもしれない。
「クロちゃんありがとう」
もう一度抱き締め直す。
怖くはない。
ひとりではないのだから。
あれは何なのか調べなければ。
私にはまだまだこの世界の知識が足らない。
この世界にも悪意があるのだ。
正体はわからないがそれだけは理解した。




