204話 精油です
本に囲まれて英気を養った私は、動揺を外に見せないよう自分に言い聞かせた。
執事のヘルゲンに頼んで、薫衣草と天竺葵の精油を融通して貰う。
妖虫を追い払うのに使われたアルニカオイルの様に、薬草とその精油は人々の生活に密着し、浸透しているのだ。
瘴気が毛穴から入って病気になるという迷信に対抗し、悪い空気を遠ざける為に、ポマンダーと呼ばれる球形で、中に空間がある細かい細工を施したアクセサリーがある。
ポマンダーの中に香りを付けた綿や香料を仕込んで、ネックレスやブレスレット、あるいはベルトなどに下げて香りを魔除けやお守りにしていたのだ。
薬草は医療にも民間療法にも料理にも使われ、厄除けや魔除けなど精神的にも人々を支えている。
ラベンダーもゼラニウムも、どちらも心を落ち着かせたり、ストレスを軽減させる効能を持っている。
私はハンカチにその2つを少し含ませて匂いを嗅いでみた。
とてもリラックスするいい匂い。
やらなければならない事は、ゲオルグから頼まれた黒山羊様の礼拝堂の件だけなのだ。
その話をするだけして、返事は後日と後は村を去っても問題は無い。
無意識に全部の問題を抱え込んで息が出来なくなるより、ひとつだけこなす事を考えよう。
そういえばドリスからは、仕事の話も寄付の話も出なかった。
いくら伝言ゲームと茶化してみてもおかしくはないだろうか?
ドリスが言ったのは、私に会ってみたいとだけだ。
誰かが何処かで、取引や寄付の話をねじ込んだ?
商会の人間が、そんな事をしてもなんの得にもならない。
一昨日は、本当に自分の村を見て楽しんでという意思だけだったように思う。
「ふんわりと温かみを感じながらも爽やかで薔薇の芳香にも似た、うーん、いい匂いです。癒されます」
何だかフーバー子爵領に来てから、ラーラが私の匂いを嗅ぐようになってしまった。
「それは先程嗜んだラベンダーと、ゼラニウムの精油の匂いよ! 別に蜘蛛避けの匂いなんて出てないから!」
「でも、本当に蜘蛛が多いのですよ? おかしいではありませんか」
「うーん、黒山羊様の御加護かもしれないわね。クロちゃんとビーちゃんのお守りもあるし、山羊と小鳥に食べられると思って蜘蛛が逃げているのかも」
山羊が蜘蛛を食べるとは思わないけれど私の匂いより、そちらの方が可能性はあるのだろう。
もしアトラクナクアという神様がいるとしたら、その配下も蜘蛛のような気がする。
神様同士が仲が良ければ、クロちゃんとビーちゃんの様にその眷属も仲が良くて、その反対もあるのでは?
マーサが他の事に気を取られている隙を見計らって、ラーラが声を潜めて言った。
「本当に村長と、お会いになられても大丈夫ですか?私はあなたの心も守りたい。もし、憂える事があるのなら村へ足を運ぶのも良く思われません」
真剣な眼差しだ。
「心配してくれてありがとう。私も思うところはあるけれど大丈夫よ。人には人の事情があるものだもの。でも、また何かあったらお願いね。頼りにしているわ」
一人ではないことがとても心強い。
私の返事を聞いてラーラは満足気に頷いてみせた。
多忙の子爵を連れまわすのは忍びないので、今回は私達だけで村へ行くことにする。
トビアスもドリスを紹介したことと、一度村へ入っていることでで安心したのか、私の好きにするように言ってくれた。
シュピネ村を訪れる貴族の客は、どうやら何度か村へ通って買い物や依頼をするのが普通なのらしい。
そうやって満足のいくものを買うのだろう。
そんな事をぼんやりと馬車に揺られて考えていると、関係もないのにエマの言葉が脳裏に蘇った。
いつも通り大人しくなって、日を追う事に言葉もしゃべれなくなって最後は寝たきりになった。
私はそれを聞いた時、何と思った?
認知症の様だと思ったのだ。
地下室の老人は本当に歳のせいで認知症を患って、介護されているの?
私はラーラの話を聞いて、あの老人は閉じ込められていても世話をされていて、ドリスは介護をしている立派な人と判断した。
そう思う方が、楽だからだ。
私は知らずうちに、思考を閉じていたのではないか?
神の奇跡と称して、人に認知症と似た症状を起こし、閉じ込めてその零落を見て喜んでいる可能性だってあるではないか。
私は、そんな人の悪意から目を逸らしたかったのだ。
真相を知るには、私のような子供では無く世間を知り探りをいれる事の出来る人が必要である。
例えば、そう王国見聞隊のような。
ドリスの事は嫌いではないし、村の発展やそこに住む女性達の生き生きとした様子を思うと素晴らしい人だと思う。
だけれど付き纏う蜘蛛の神様の奇跡の胡乱さに、手放しで信頼を寄せる事は出来ないのだ。
私は私のしなければならない事を済ませて、後は見聞隊や別のこういう事に向いている人に任せよう。
ドリスへの評価は、その報告を聞いてからでいいでは無いか。
これは逃げなのかもしれない。
でも目の前で言葉を交わして笑う相手を疑い切る事が、私には無理なのだ。
なんて甘いのだろう。
暗闇に隠した彼女の秘密に、私は向き合う事が出来ないでいた。




