2話 赤子です
赤ちゃんの泣き声が聞こえる。
うっすらと意識が浮上して最初に耳に飛び込んできたのはよく響く泣き声。
涙に滲む瞳には、高い天井に描かれた荘厳な絵が映る。
美術館?
ここはどこだろう?
ああ、泣いているのは私だ。
だってオムツが気持ち悪くて、泣かずにはいられないではないか。
私が泣いていると、中年の女性が近付いて来て、手早くオムツを替えてくれた。
スッキリとしたロングのドレスに、縁取りのついたエプロンをつけている。
目元に皺があるが、品のある人だ。
動作も機敏で、この人に任せておけば間違いないだろうというのがわかる。
お世話してくれているし私の母なのだろうか?
他にもメイド服の女性がいるけれど、家族というにはちょっとピンとこない。
肌触りの良い新しいオムツにしてもらって、満足しながら置かれた状況を考える。
お世話してくれている人には大変申し訳ないけど、どうにも自分じゃなにも出来ない。
寝返りひとつさえ、出来ないのだもの。
これではおばさんじゃなく、介護されるおばあちゃんである。
もしかしてあの事故で寝たきりになってるだけで、神様とか夢で今赤ちゃんだと思っているのも痴呆症状なのかもしれない。
どうしよう。
もしそうなら、一刻も早く正気に戻らなければ。
でも、どうやって?
必死にジタバタしてみるが、やはり体は思うように動かなかった。
中年女性がなにか語り掛けてくるのだけど、何を言っているのかまったくわからないのも怖い。
目も耳も頭もどうかしてしまっているのかしら?
どう聞いても日本語の響きではないし、部屋は見える範囲で考えても日本家屋でもないのだ。
第一、周りの人間も彫が深くどうみても日本人ではない。
やはり神様はいて、私は別の世界にいるのかしら?
話しかけられる言葉をよく聞いてみると、繰り返される「シャルロッテ」と聞こえる単語。
どうやらそれが私の名前のようだ。
海外の名前よね。
私は外国人になったということかしら?
文化や習慣に差異は無いとか神様は言っていた気がするのだけれど、日本ではないわよね。
目に入る人達が着ている服も現代服ではなく時代物の少女漫画で見たような服だし、電化製品も置いてあるようには思えない。
照明はあるが電気なのか火なのかは、よく見えなくて確認のしようがなかった。
神様にとっては人種も言語も服飾も、とてもささいなことなのかもしれないけれど日本人の私にはちょっと違和感が大きいと思うの。
と、言う訳で赤ちゃんです。
いろいろ考えた結果、私は赤ちゃんで間違いないようです。
生まれ変わりというのかしら?
乳児なんて困ってしまった。
寝てるだけだし、詳細が何もわからない。
途方に暮れるとは、この事か。
なんだかお腹が空いても眠くても泣けるし、事あるごとに泣くトリガーが入ってしまう気がする。
こんなに泣いてお世話をしてくれる人達には申し訳ないのだけど、自分でも止められないんです。
本当にすみません。
お世話かけます。
今後を色々思案しようにも、親指を口にしておしゃぶりではどうにもしまらない。
でも、おしゃぶり楽しいです。
とか、しているうちにまたうとうととしてしまう。
まるで、まどろみの中で漂っているみたい。
ぼんやりと今後を思いあぐねていると、扉が空いて金髪を優雅に結った美人がメイドを連れて入ってきた。
メイドがいる生活ってすごい。
感心していると、私のお世話をしてくれてる中年女性と彼女は少し話をしてから私に近寄ってきた。
周りより明らかに仕立ての良い服とアクセサリーを見るに、この家の女主人だろう。
ちょっとふくよかだが、それは心と体が豊かである証であり、少しもその美しさを損なってはいなかった。
彼女は私を愛しげに抱き抱える。
何を言っているかわからないがその柔らかな声音、その温かな眼差しは知っている。
まるで私を世界で1番大事なもののように彼女は扱う。
そう、私は知っている。
これは母の眼差し。
私の前世の母も、同じ眼差しを私に注いでいた。
早くに逝ってしまったお母さん。
私は覚えている。
長い時間は一緒にいられなかったけれど、私の魂は母から向けられるそれを覚えていた。
この女性は前世は関係なくとも、今の私にかつての私の母と同じものを注いでくれていた。
前世の母、今生の母。
そして私も自分の子供に、この眼差しを向けたのだ。
無償の愛。
夢物語の陳腐な言葉だけれど、こんな身近に存在している。
この人が今の私のお母さん。
そう思うと、郷愁と愛情と寂しさで私の思考はぐちゃぐちゃになり思わず泣いてしまった。
母が中年女性に何か言われ、私を渡そうとしたのでますます大きな声で泣いてしまう。
離さないで そばにいて 私を見て
それは前の世で、早くに亡くした母への気持ち。
私は新しく生まれ変わっても、それを魂の傷として持ち越してしまったのか。
話せないもどかしさから、体いっぱい使ってサイレンのように泣いてしまう。
なにか察したのか諦めたように彼女は笑うと、もう一度私を抱き直してくれた。
安心感に包まれる。
前の母への思慕の分まで、この母へぶつけてしまった。
大人げないけれど、まあ今は赤ちゃんだし。
ゆっくりと、温かいものが私の体と心に満ちて私は眠りについた。