199話 男です
老婦人の話の通り、少し歩いたところの壁に漆喰を塗りこめている男がいた。
ここまで見かけた男と同じ様に黙々と働いている。
私が近付く足音にも振り返ろうとはしない。
見るからに立派な体格をしているせいか、ラーラが警戒して剣に手をかける素振りをみせた。
首を振って諫めるが、納得はしていないようだ。
「あの、こんにちは」
どう声を掛けるか悩んだが、結局普通の挨拶になってしまった。
私の声に反応してか、男は手を止めるとゆっくりと振り向いた。
その目は焦点が合っているとは言い難く、なんというか虚ろな感じに見える。
「こんにちは」
ぼんやりとしながらも、ゆっくりな口調で礼儀正しくこちらを向いて挨拶を返してくれる。
敵意が無いのがわかったのか、ラーラが緊張を解くのがわかった。
「お仕事の邪魔をしてしまってすみません。少しお話を聞かせてもらってもいいですか?」
迷ったり逡巡する様子はないのに、少し間をおいて返事がかえってくる。
「ああ」
なんだろう?
とても愚鈍な感じがする。
この村の女性は生き生きとしているのに反して、目の前にいる男性は覇気が無くぼんやりとした印象である。
少し頭が弱い男なのかもしれない。
世間話をする雰囲気でもないし、あからさまに聞いても大丈夫な気がした。
「こんな事を聞いてはいけないのかもしれませんが、アトラクナクア様の奇跡というものはどのようなものなのですか? 実際にあなたはアトラクナクア様に会ったのですか?」
私がここまで言うと、男はひっと息を飲む様な小さな悲鳴を上げるとかがみこんでしまった。
「あの」
その大きな図体は小刻みに震え、隠れる場所もないというのに、なるだけ小さくなろうとしているかのようだ。
その異様な様子に、ラーラも驚いている。
「あの、大丈夫ですか? どこか具合でも悪いのですか?」
私の声は、もう男には届いていないようだ。
「おい、男。シャルロッテ様の質問に答えないか」
震えながら何かをブツブツと呟いているので、聞き耳を立ててみるとずっと同じ事を繰り返しているようだ。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、もうしません、もうしません、もうしません」
「話になりませんな。狂人かなにかなのでしょう。シャルロッテ様がお相手するには相応しくありません」
縮こまって返事をしない男に呆れかえったのか、ラーラが私にドリスの家に戻ろうと促す。
先ほどまで真面目に壁の修理をしていたというのに、なんだか悪い事をした。
だけれども、こんな風になってしまうのが奇跡?
これを奇跡と呼ぶの?
「お仕事中断させて、ごめんなさい」
ラーラに連れられた私は、彼の丸まった背に声を掛けた。
「……、もう、すわないで」
最後に、憐れな彼の呟きに力が篭った気がした。
私の耳にその言葉が残った。
「なんなんでしょうな。あのような男も村の立派な労力というのですかね? 怯える前はまったく生気を感じなかったので死歩人かと思いました」
ああ、なにか警戒していると思ったら魔獣と思っていたのか。
死歩人は文字通り歩き周る死人で、強い無念や術により魔素を取り込んだ人間の死体である。
たまにテレビなどでゾンビの映画を見たが、どうやら同じような存在がこの世界にはいるようだ。
ただ、噛まれて感染するとかはないので、死人感染が起こることはないという。
「ラーラはゾンビなるものを、見た事があるのですか?」
そう尋ねると、キランと目が光り女騎士は武勇伝を語り出す。
野営の最中に墓所から這い出て来たゾンビの話だ。
「まあ死体といえど同胞ですからね? なかなか切るのを躊躇う兵士も多いのですよ。まあ切っても動きが止まることがないので、鞘をつけたまま頭をぶん殴るのが正解です」
そう言いながら鞘付きの剣を構えて打ち下ろして見せてくれる。
貴族の婦女子が「ぶん殴る」なんて言うのを初めて聞いたが、マーサがそばにいなくて本当に良かった。
立派な女騎士であるラーラが、マーサに礼儀作法の復習を強制されたら気の毒すぎる話である。
「ただいま戻りました」
ドリスの家の玄関先で声を掛けてみるが、誰も出てくる様子がない。
どうやら、まだ誰も戻っていないようだ。
「マーサは刺繍と糸屋さんに夢中の様だったし、のんびり広間で待たせていただきましょう」
そう声を掛けるが、ラーラは一緒に広間には入らずに扉の外で警備にあたると言っている。
変なところが真面目すぎる。
たまには、のんびりしてもいいと思うのだけれど。
私は広間でひとりぽつんと座って皆の帰りを待っていたが、少々それも飽きてきた。
可愛い置物や部屋を飾る布類もしっかり堪能してしまったので、少々はしたないが他の部屋ものぞかせてもらおうかと、腰を上げる。
かといって、広間の奥はなんてことのない台所や水場である。
手持無沙汰にうろうろするが、しんと静まり返っていてなんだか落ち着かない。
本とかがあれば読みたいのだが、書斎は2階なのかもしれない。
2階には確か、逃げてきた女性達を囲う客間があったのだっけ?
具合が悪いアリッサが休んでいるはずだし、起こしてしまっては可哀想だ。
ひとしきり思案するが、主人の不在に2階に上がるのはなんなので、つまらないが大人しく広間に戻ることにしよう。
そう思い、台所を後にしようとしたところ何かが聞こえた気がした。
振り向くが、音が出るようなものは何もない。
裏庭に続く勝手口が空いているのかと見に行くが、しっかりとしまっている。
どうやら台所と続きの食品貯蔵庫から洩れ聞こえている?
低く、とぎれとぎれに。
何かのうめき声がした。




