187話 蜘蛛です
「蜘蛛をみかけても、決して殺さないで下さい」
客室へ通される時に、案内を引き受けた年配の女性の使用人が伝えて来た。
部屋に着くまでずっと黙っていたので、余計な事を言わない様に言い含められていたのかと思っていたが緊張していただけだろうか?
「あら? この辺のしきたりか何かかしら? そもそも蜘蛛がでるんですの?」
マーサが返事をすると、同じ世代の女性同士だからなのか使用人の表情がゆるむのが見えた。
「ええ、蜘蛛が多い土地なんですよ。そちらのお嬢様には申し訳ないのですが、くまなく掃除をしてもどこからか出て来たり……。害はないのでどうか殺されませんように」
私が蜘蛛に驚いて、護衛のラーラにでも命じて殺させるとでもいうのだろうか。
うーん、虫嫌いのお嬢様ならそれもありそう?
蜘蛛は確か害虫を食べたりするから、益虫と言われるのよね。
「私そんなこといたしませんわ。蜘蛛は悪い虫を退治してくれるというし、神様の遣いとされたりすることも多いですもの」
蜘蛛に纏わる逸話は、確かどれも人を助けるものだったと思う。
芥川龍之介の蜘蛛の糸もそうだが、洞窟に巣を張って逃げる賢人を追手から匿ったりした話があったはず。
そう思うと女性を匿うこの村の神が蜘蛛なのは、なんだかしっくりきた。
前世のうろ覚えと出発前に本で仕入れた知識を思い浮かべて告げると、女性は何故か大いに喜んだ。
「まあ! さすが聖女様と呼ばれるだけあって博識ですね! ええ、ええ、蜘蛛は神様の遣いなんですよ」
先ほどまで緊張していたようだが、すっかり、気を良くして喉は乾いていないかとか何かして欲しい事はないかとあれこれ声をかけてくれる。
この反応はあれだ。
もしかしなくとも蜘蛛の神様の信徒なのではないか?
「こちらの部屋も織物と刺繍が素晴らしいですわね。シュピネ村はどういうところなのかしら?」
「まあ、お嬢様のような方にそう言ってもらえるなんて、村の皆も大喜びですわ。明日は村にいらっしゃるのですよね? それはもう女性には天国のような場所ですよ」
「あなたもあの村のご出身なの?」
「ええ、生まれは別ですがシュピネ村で暮らしております。お優しいトビアス様が村の住民を屋敷の使用人に取り立ててくれたお陰で、こうして働けております。あ、これは内緒だった。すみません、不愉快じゃありませんか? 村人などと口を聞くのは」
中には不敬だなんだとケチをつける貴族はいるので、確かに使用人の身分は明かさない方が得策だろうが、私にとっては何の問題でもない。
「まったく構いませんわ。これまでも身分の差の関係なしに、いろんな方と過ごしてきましたもの。知り合いには村の酒場の女主人もいるくらいなのよ」
ウェルナー男爵領の経験は私の考え方や生活にいろいろ影響を与えてくれた。
経験というのは何物にも代えがたいものである。
「そうなんですね。高い身分の方なのでボロを出さない様に黙っていた方がいいと言われておりましたが、こんなに気さくなお嬢様だったなんて……。是非、村を楽しんで下さい」
この女性は、きっと生来のおしゃべりなのだろう。
「そうね、村の皆様にも気軽に声をかけていただきたいわ。そうそう、こちらの地方には蜘蛛の謂れとしてどのようなものがあるのかしら?」
朝の蜘蛛は縁起がいいとか日本でも言われていた気がする。
「謂れというものでもないのですが、村では蜘蛛を大事にするように言われているんです。神様の子供なので私達の家族みたいなものですね」
無邪気に微笑みながらそう答えるのを見ると、特に宗教を隠している訳でもなさそうだ。
「小さくとも同じ命ですものね。蜘蛛というと機織りや糸紡ぎの方の守護者と聞きますがシュピネ村でも?」
「ええ、それはもう信心深く祀られていますよ。村の蜘蛛の神様、アトラクナクア様というのですが、いつも見守って下さるのです。アトラクナクア様は女性の守護者でもあるので、遠い土地から逃げてきた女性を匿ってくれるのです。かくいう私も昔に親に売られる所を逃げ出して、ここにたどり着いたひとりなんですがね」
そう言ってから使用人はお嬢様に聞かせる話では無かったと、口を抑えて謝罪した。
「お気になさらないで。大変な苦労をされてきたのですね」
「いいえ、私なんてまだいい方ですよ。とにかくこの村に来て裁縫を教えて貰って可愛らしいものに囲まれて暮らせて、幸せなんです。刺繍の腕は余り良くなかったのですけどね! そのお陰でお館で働けるので、これもみんなアトラクナクア様と村のお陰です」
使用人はひとしきり世間話を終えると、つい話し込んでしまってと慌てて部屋を出ていった。
どうやら彼女が黙っているよう言われたのは、身分どうこうではなくて話好きで長くなるせいではと思わせる話しぶりであった。
話があちこち飛んで長くなるのは男性には要領を得なくて苦手な会話かもしれないが、私には楽しいものである。
他愛のない話をしゃべりあうのは女性にとって必要な儀式みたいなものかもしれない。
使用人の話からも、全く後暗いところはなさそうであった。
領主と村の関係も良好のようだし、女性を保護する村としても十分に機能している。
逃げてきた女に住む所と仕事を与えてくれるなんて、他所では考えられないことだ。
それを可能にしたアトラクナクア教は素晴らしいとは思うが、だからこそ何かあるのではないかと思ってしまう。
私が疑り深いせいか、世俗に塗れているせいか分からないがよく言うでは無いか。
おいしい話には裏があると。




