165話 ある女性の話です
子供の時の彼女に将来の夢はと聞かれれば「お嫁さん」と頬を赤くして答えただろう。
その女性は平凡な村人として生まれて、普通の結婚をして、普通に家庭をもってその他大勢と同じ様に自分の人生は続いていくのだと思っていた。
どうして、こうなってしまったんだろう。
それはある時期の彼女の口癖であった。
年頃になり、偶然にも優しい男性と出会って恋をして求婚をされた。
その時の彼女は確かに世界で一番自分が幸せだと思っていたし、人生が順調に進んでいる事を疑いもしなかった。
不幸など想像できなかった。
村でささやかな祝言を上げると、少々離れた夫の街へ連れて行かれた。
幼い頃から周りの大人に結婚をするならこの村の人間か、そうでないのなら隣村の人間にするのがいいと聞かされていた。
なんて古い人達。
古臭くてカビが生えそうな人達。
相手がどこの人間でも良いではないか。
冒険心も無く、生まれついての土地に縛られる人間を彼女は心の中で馬鹿にしていた。
結婚生活は順調であった。
新しい場所から村へ帰るには何日も乗合馬車に揺られて、乗り換えをしなければならない。
だが、その距離も気にはならなかった。
置いていく親は心配ではあったが、多分に漏れず子沢山であったので村に残る兄弟が面倒を見るだろう。
自分は見知らぬ新しい土地で、新しく家庭を築くのだ。
連れて行かれた先は村ののどかな生活とは違い、街中の狭い家と、せせこましいものであったが若い彼女にはそれで充分であったし、目に映る街のすべてが新鮮に思えた。
舗装された道も農作業が無い事が日常になったことも、彼女は誇らしく感じた。
ここは自分の知っている田舎臭い村ではない。
村で育ったものの常で、彼女は街に憧れていたしその生活を手に入れる事が出来たことをとても喜ばしく思っていた。
村でお祝いとして貰った金子を使い切る頃、彼女の生活に陰りが見えてきた。
街での暮らしは畑を耕して、森に入って食べ物を見繕う生活とはまったく違い、何をするにもお金がかかる。
夫に渡された生活費で日々の糧を賄い、生活を整えるのに慣れるのに思いのほか難儀した。
日常品や食料品の相場もわからぬまま街に連れてこられたので、それは当然だと言えよう。
彼女の目に街が鮮やかに映ったのと同じく、そこに住む人達も洗練されて見えた。
所詮は田舎の街なのだが、村育ちの彼女にはそれはひどく素晴らしいものに思えたのだ。
夫は素朴な君が好きだ、君の素直で世間知らずのところが好きだとよく口にしていたが、周りに比べて、ひどく自分がみすぼらしく思えたのだ。
話す言葉も自分の着ている服でさえ野暮ったく思えて、買い物をする時も道を歩く時も俯きがちになっていった。
どこで間違えたのかもう覚えていないが、これだけは覚えている。
「新しい服が欲しいわ。街の人みたいな」
そう口にした途端、夫が不機嫌になったのがわかった。
夫から出た返事は「そんなもの必要ない」だった。
そこで、いかに自分が街の人よりも見劣りするかと日頃の不安を口にすると夫は黙ってどこかへ出かけてしまった。
ぽつんと家に残されて彼女は初めてそこで知ったのだ。
この人が溢れる街で、自分の知り合いは夫ただひとりなのだと。
狭く隣人の生活すべてを知っているような小さな村で育った彼女は、その事実に身を震わせた。
夫が帰ってこなければ自分は誰にも知られずにここで死んでしまうのではないか。
夜中に夫が飲んで帰って来たのを確認すると、ほっと胸をなでおろした。
だが、自分がひとりきりであると自覚した恐怖は彼女から無邪気さを奪っていた。
どうして、こうなってしまったんだろう。
村から持ってきた口紅が無くなった時、夫に新しいものをねだった。
身嗜みを整えるのに必要なら、夫も許してくれるとそう思い込んでいたのだ。
返事は「そんなものは必要ない」の一言で、なおも食い下がると「どこの男に色目を使うつもりだ」と責め立ててきた。
当たり前に装うことも禁じられ、表情も暗くなった女性に贈られた夫の言葉は散々なものだった。
辛気臭い女、地味な女。
その癖、彼女が身嗜みを整えようとすると、結婚してるのだからもう「そんなものは必要ない」だろうと言い放つ。
愚図な女だ、気が利かないとさげずまれ、それは彼女から快活さを奪っていた。
どうして、こうなってしまったんだろう。
私だって村にいた頃は、言い寄る男もいたし綺麗と評判だったのに、彼女はそう思ったが時間は残酷にも彼女から若ささえも取り上げようとしていた。
髪はぱさぱさで指先はひび割れ、血色も悪く陰気な女がそこにいた。
夫の言葉は暴言を通り越して、暴力を伴っていた。
きっかけは些細な事で、皿の位置が悪いとか椅子が戻していなかったとかそんなものである。
夫も気付いたのだ。
彼女には行く当ても、助けを求める相手もいないことに。
彼がこの女の生きるすべてを握っているということに。
そこから先に待っていたのは主人と下僕の関係である。
気に入らなければ蹴り飛ばし、機嫌のいい時には少し優しくするだけでその女は喜ぶのだ。
なんて単純で騙しやすい女だろう。
夫は心の中でそう思っていた。
どうして、こうなってしまったんだろう。
女は日に幾度となくそう思い、夫の咳払いひとつに怯えて生活をしていた。
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