16話 母と乳母です ※末尾に名前メモ一覧掲載
刺繍と引き換えに、クロちゃんは正式に私のペットとなりました。
まだ現物は出来てはいないのだけど。
山羊は躾も出来るかわからないし、トイレも覚えないのではとクロちゃん専用の使用人を付けることを大人達から言われたけれど、そうするとますます私のひとりの時間が無くなってしまう気がする。
出来れば、私の部屋で飼いたいのだ。
確かに、動物は犬猫でさえ時に思いがけないイタズラで部屋中を荒らす事もある。
でも、クロちゃんは神様のとこの子で、父の言を借りれば「神様の御使い」な訳である。
元の姿は山羊でも無かったし、私の言うことも理解しているのだから使用人が必要とは思えない。
そういうことで、私はいかにクロちゃんが優秀か父にプレゼンをする事にした。
屋敷の中の事なので、勿論女主人である母にも同席してもらう。
「この子がシャルロッテのお気に入りなの? 仔山羊さんはじめまして」
にっこり笑ってクロちゃんに白い手を伸ばす。
優雅に差し出された母の手に、しゅるんっとクロちゃんは顔をなでつける。
「あらあら、なんてお利口で賢いのかしら」
ふふっと笑う母はまるで少女の様な無邪気さがある。
女主人の役割は、主に屋敷内の事と社交である。
人それぞれ得手不得手があり、屋敷を放ってパーティを渡り歩く人もいれば母ヒルデガルトの様に子供が小さなうちは領地で過ごしたい人もいる。
王都から距離がある田舎や経済的に困窮する貴族だと、人付き合いが苦手であるとか体が弱いと表向きに理由をつけて領地に籠ったりもあるそうだ。
母は私達といたいのもあるだろうが産後太ったのを気にしている様なので、あまり勇んでパーティに出る気はないようだ。
少しふっくらしてるだけなのだけれど、女性の心は難しい。
美人で侯爵夫人と言う地位もあり何を臆する事があるのかと思うが、元々は優しく気が弱い人なのかもしれない。
そんな彼女を、父が気遣っているのが見て取れる。
高慢な女性だったらギスギスした空気の中、暮らした事だろう。
穏やかな家庭で居心地が良いのは、両親共々のお陰である。
「クロちゃん座って」
「あのクッションのところまで移動」
「扉をノック」
動物曲技団のような感じで、両親の前でクロちゃんに私が指示をだしてその通り動いてもらう。
ノックは器用に角を使っている。
「シャルロッテには動物の調教の才能があるのかしら?」
クロちゃんの芸に、目を輝かせて母は言う。
「母様違うの。クロちゃんがとびきり賢いのよ!」
そういって母に向かって頭を下げるよう指示してお辞儀をさせる。
「ね? だからクロちゃんに人をつけなくてもいいでしょ? トイレも外でしかしないし、今だって汚したりしていないでしょ?」
「山羊ってそういうものなのかしら? 初めてなのでわからないけれど」
一般の山羊がどうなのかは私にもわからないけれど、貴族の両親にも家畜の事はわからないのだ。
ちなみにクロちゃんには、トイレは必要ないみたい。
1度も排泄をしたところを見たことがない。
神様の生き物だから、知らない原理があるのかも?
アイドルはトイレに行かないってやつかしら。
「まあ賢いのは確かですし、シャルロッテがここまで言うなら最初は様子見を兼ねて、自由にさせてあげましょう? 普段わがままを言わない子なのだし」
母は私を抱き寄せて、額に口付けをする。
日本人の私には慣れない習慣なので、最初はやはり抵抗があった。
家族にキスされるなんて、どういうこと?と。
だがスキンシップの多い生活であるし、慣れてしまうと愛情が感じられて心地よい。
お返しに頬に軽く口付けするのも慣れたものだ。
「君がそういうなら」
父は母にそう言うと、折れてくれた。
クロちゃんにまで使用人がついたら、それこそ私に24時間監視がつくようなものである。
さすがにそれは勘弁したい。
回避出来て何よりだ。
さて父への刺繍はどのような意匠を刺そうかな。
エーベルハルトの紋章でもいいのだが、それだと母様も代々の女主人もやっているだろう。
せっかくだし黒山羊を簡略化して刺してみようと思い立った。
紙にデザインを描いてみる。
逆三角形を顔にして耳は上を向いた新月に、角は下をむいた三日月に。
目は横棒。初めて前世で山羊を見た時はそれはびっくりした。丸い黄色い目の中に黒い横棒があるのだ。
不思議な動物である。
クロちゃんは黒山羊だから、黒の刺繍糸で毛並みを表現。
なかなかユーモラスで可愛く出来たのではないだろうか?
月が4つもあるのだから、星もまわりに配置しようかな。
乳母のマーサに習いながら、少し不格好だが体裁の整ったかわいい黒山羊の刺繍が出来上がった。
クロちゃんに見せようと思ったら、暢気に足元に置いたクッションで眠っていた。
起きたら見せればいいか。
「マーサ見て! かわいく出来たと思わない?」
「かわいらしいのはシャルロッテ様ですわ。刺繍も初めて見る意匠だけれど、愛らしいこと」
そういいながら、彼女も自作の刺繍を進めている。
白地に白の刺繍。糸には光沢があり、花の意匠が煌めいている。
繊細で美しい紋様、なんて綺麗な作品だろう。
マーサは侯爵家の遠縁の夫に先立たれて実家に戻っていたところを、父が子供の乳母にと召し上げたのだ。
夫の喪に服す意味で亡くした一年間は黒しか身に着けなかったそうだが、喪が明けてからも地味な色に質素なデザインのドレスばかり着ている。
慎ましやかで寡婦はこうあれと老人達が語る貞淑を体現したかのような人だ。
歳は50近くであるだろうか?
色気や艶やかさはないが優しく母性があふれる人であり、刺繍や料理を嗜み女主人としての華やかさはなくとも安心感がある。
母ヒルデガルトが可憐な百合なら、マーサは水辺で静かに佇む水仙の様な人だ。
先の冒険の事は、マーサには内緒にしてもらっている。
責任感の強い彼女がそれを知ったら、ひと騒動になりそうなのは父もわかっているのだろう。
私の失態は育てたマーサに直結してしまう。
今思えばやはり無謀だったのかもしれないが、クロちゃんという戦利品を得たのはいい事だとしておこう。
MEMO
エーベルハルト侯爵家
シャルロッテ:本作主人公。現在8歳
ルドルフ :兄 現在11歳
アウグスト :父 領主
ヒルデガルト:母
マグダレーネ:祖母 王国南部に居住
エーベルハルト使用人
マーサ :乳母 侯爵家の傍系の寡婦
ソフィア :男爵家5女 シャルロッテの侍女見習い 14歳
ハンス :元家令
デニス :バルテン伯爵3男 ルドルフの侍従 15歳
カール :厩舎の世話人
ゼップ :厩舎の小間使い
クロ :黒い仔山羊
エーベルハルト領
リーベスヴィッセン王国 北東部
火山を含み隣国との国境沿いに位置する




